「管屋」としてのあり方定め、目指すは黒字ホワイト企業

栃木県
栃木精工株式会社
代表取締役 川嶋 大樹さん

栃木精工は今年で創業73年を迎え、医療機器の製造、精密パイプの加工を手掛ける。注射針事業を育て上げた初代の祖父、苦境を乗り越え事業領域を広げた2代目の父の事業を2010年6月に受け継いだのが川嶋大樹社長だ。

「会社を継ぐ選択肢は全くなかった」という川嶋社長が戻ることを決断したのは26歳、2005年の時のこと。社長就任後は、会社を「管屋(くだや)」と定義づけ、「黒字のホワイト企業」を目指して様々な決断をし、会社をさらなる成長軌道に導いている。入社当初は社内で疎外感があったという川嶋社長は、どのように経営のイロハを身に付け、何を大事にして経営を行ってきたのか話を聞いた。

出典:令和2年度中小企業庁/プッシュ型事業承継支援高度化事業/「ロールモデルのクローズアップ」事業「継ギPedia」(http://tsugipedia.com/)

 

父親の病気をきっかけに、100%スイッチが切り替わった

ズッキー
ズッキー
私は26歳のアトツギです。経営を引き継ぐのは30過ぎくらいかなとぼんやり考えながらまだ決心がつかないでいます。今日はアトツギの先輩に率直な疑問をぶつけていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

栃木精工は設立70年目の会社で、私で3代目です。注射針のほかにカテーテル、ポンプチューブ、医療用コネクタ、内視鏡用構成部品などをつくっています。

川嶋氏
川嶋氏

ズッキー
ズッキー

先代のお父様の時代までの会社のストーリーを教えてください。

創業者の祖父は病弱で戦地に行けず、それを引け目に感じていたようです。そこで医療や教育、福祉分野などで人の役に立つことをしたいと考え、まず注射針の生産を始めました。その後、教育分野で看護師養成学校、社会福祉分野で特別養護老人ホームを設立しました。

川嶋氏
川嶋氏

注射針の製造については、一時は輸出の割合が9割を占めていましたが、1985年のプラザ合意後、急速に進んだ円高で打撃を受け、売り上げがピーク時の37億円から7億円まで落ち込みました。

川嶋氏
川嶋氏

ズッキー
ズッキー

その苦境をお父様の代ではどう切り抜けられたのでしょうか。

▲前社長(左から2番目)社員旅行にて

 

祖父は新しいことにどんどんチャレンジし、資金計画には無頓着でした。父は経理部門で金融機関との窓口を担当していました。手形の期日が迫ると家でもあからさまに機嫌が悪かったのを覚えています。

結局、会社を存続させるため、270人ほどいた社員の希望退職を募らざるを得ませんでした。また、注射針以外にも製品の幅を広げていこうと、医療用コネクタ、チューブ、カテーテルなどの医療機器へと製品群を広げていきました。

川嶋氏
川嶋氏

ズッキー
ズッキー

川嶋さんは大学院卒業後に製薬会社に入社されています。事業承継についてどう考えていたのですか?

継ぐという選択肢は全くなくて。サラリーマンとして入社したからには出世して社長になるぞ、くらいの気持ちでした。私は3人兄弟の真ん中で、兄は父の会社に入ったのですが合わずに辞めてしまいまして。それでも弟がやればいいかなくらいの気持ちでいました。

川嶋氏
川嶋氏

前職時代の研修にて(左端)

ところが、社会人になって半年が経ったころに、父から肺がんを患ったと告げられました。それで手術の前日に父から「継いでほしい」と。手術が失敗するかもしれないし、うまくいっても長生きできないと、言われました。半分は本当、半分は嘘だったのでしょうけれど、そのときに「わかった」って言っちゃったんです。

川嶋氏
川嶋氏

ズッキー
ズッキー

思わず口をついて出てしまったのですね。

はい。手術は無事成功したので、そこからもう一度悩みました。自分が継がなかったら会社はどうなるのか、と。弁護士を目指していた弟の夢をあきらめさせるわけにもいかないし。じゃあ会社を閉めないといけないのかと考えたとき、自分が子供の頃のことを思い出したのです。工場に遊びに行ったら、職人さんが私の持っていたベイゴマをグラインダーで削って、鉛をつけて、強いベイゴマにしてくれたなあとか、いろいろ記憶が蘇って。

 

なにより、自分が大学院まで行かせてもらえたのは、社員のみなさんが頑張ってくれたからなんだと考えるうちに、会社をなくすわけにはいかない、と100%スイッチが入りました。人間って理由付けしないと動けませんよね。そうやって考えた末に自分を納得させることができたんです。

川嶋氏
川嶋氏

 

 

 

「メリット>デメリット」ならまずはやってみる

ズッキー
ズッキー

入社してどんなことを感じましたか?

疎外感がありました。当時80人の社員がいたのですが、私1人対80人みたいな。社内食堂でご飯を食べている時に、製造部のタイ人社員が話しかけてくれたのをきっかけにそこから1人、2人と仲間を増やしていきました。

川嶋氏
川嶋氏

▲栃木精工入社時 取締役と

ズッキー
ズッキー

入社してからはどんな仕事を?

まずは医療関係の製品を開発する企画開発部に配属されました。ただ1年も経たないうちに、磁性素材の合金「パーマロイ」の製造から手を引くというメーカーの経営者から事業を譲りたいとの話が舞い込んできて、その会社に出向することになりました。

 

その会社は20年前にその素材で精密なパイプをつくれないかとうちに飛び込みで相談があり、以来取引のあった会社でした。3代続いた70年ほどの歴史のある会社でしたが、社長には娘さんしかおらず、工場を閉鎖して商社として生きることにしたので、製造を任せたいとのことでした。

 

その前に事業のことを理解してもらいたいから、だれか出向してほしいということで、僕が指名されたんです。医療機器の製造部にいた社員を連れて2人で都内のマンションの一室に暮らしながら製造方法やノウハウを9カ月間教わりました。

川嶋氏
川嶋氏

ズッキー
ズッキー

その会社で得たことはありましたか?

先方は、私がアトツギの息子と分かって呼んでいるので、社長と製造部兼営業部のマネージャーの2人がこんこんと経営のイロハを教えてくださいました。驚いたのは、経営数字がすべて社員にオープンにされ、会社の中で自由経済が機能していたことです。

川嶋氏
川嶋氏

ズッキー
ズッキー

どういうことでしょうか?

営業担当者は取引先に売る値段だけではなく製造部にいくらで発注するかも自身で決めており、その値幅の何割かを自分の給料としてもらえる仕組みになっていました。製造部は他の営業担当者からも発注されるわけですが、当然いい値段で受けてくれるところを優先して受けます。営業担当者にしてみれば品質、納期をきちんと守る代わりにそれに見合った価格をしっかり提示できる力も問われるのです。

川嶋氏
川嶋氏

ズッキー
ズッキー

すごい仕組みですね。

一つのモデルとして理にかなっているなと思いました。ただ一方で、自由競争である分、社内では足の引っ張り合いもあります。会社ももちろんその点をわかってやっているわけですが。

川嶋氏
川嶋氏

どんなやり方であれ完璧な制度というものはなく、メリットもあればデメリットもあります。その両方を天秤にかけて、メリットのほうが上回っていれば、それを価値として選ぼうという発想が身につきました。私自身栃木精工に入社した時も、そのように考えて入社を決めましたから。

 

ちなみに多くのことを教わったそのときのマネージャーさんは今うちの顧問として来ていただいています。

川嶋氏
川嶋氏

 

 

 

父の教え「社員の雇用と生活を守る強い会社に」にこだわって

ズッキー
ズッキー

貴重なご経験をされて会社に戻ったわけですね。

入社4年半後に社長になりました。社長になってまずしたことは、うちの会社は何をしている会社なんだろうと定義づけることでした。投資をしていくうえでも、どのように優先順位をつけて投資していくのかを考えないといけないと思ったからです。

 

すでに注射針が売り上げに示すシェアは20%にまで減っていて、その代わりにコネクタやカテーテルが増えて、改めて考えてみるとうちは「管屋(くだや)」だという結論に至りました。「管のことならなんでも任せてください。素材や加工の工夫はいくらでもできます」という言葉で営業提案をしていくと、徐々に売り上げが増えていきました。

川嶋氏
川嶋氏

ズッキー
ズッキー

新工場を建てる決断もされたそうですね。

工場はだいぶ古くなっていたので品質を保つためにも工場を新しくしないと、と考えていました。その前提として、社内では事業の選択と集中を進めるべきだという意見がありました。医療機器とパイプ事業のうち、パイプ事業は伸管課のほかに、買ってきたパイプに付加価値をつける加工課があり、前者については広い面積を要するので撤退しようという意見が大勢を占めていました。

 

私はパイプはまだまだ用途や素材の広がりが期待できるし、パイプは決して世の中からなくなることはないと思い、その意見に反対して両方やることを決めました。

川嶋氏
川嶋氏

父は、270人いた社員を70人にまで減らさざるを得なかったつらい経験をしています。晩年になっても、「社員の雇用と生活を守る強い会社にしてくれ」と言われていました。そのことからも安易に事業の撤退を決めることはできませんでした。

川嶋氏
川嶋氏

ズッキー
ズッキー

お父様の教えからも大きな影響を受けているのですね。それで新工場の建設を決断されたわけですね。

そうです。銀行から仲介してもらったある会社と交渉して遊休工場を譲っていただけることになりまして。たまたまその会社の社長の娘さんとうちの次男が同級生でそこでも縁を感じました。建設業者は実績もあり、見積額も納得のいく会社だったのですが、なんとそこは私が初めてアルバイトした先だったんです。すべては人の縁だなと感じます。

川嶋氏
川嶋氏

 

 

 

次の代に自信を持って手渡せる会社に

ズッキー
ズッキー

社長に就いて、どんな会社にしたいというお考えはありましたか。

自分が次の代に会社をバトンタッチするときに、自信を持って手渡せる会社にしたいと思い、目指したのが黒字のホワイト企業です。

 

当時は、医療機器とパイプの事業間でも、事務所と工場間でもとげとげしい雰囲気がありました。とくに工場は働く環境が厳しく、新工場建設でシャワールームを設けるなどして環境を改善しました。

川嶋氏
川嶋氏

もう一つは待遇の改善です。そのためにまず以前出向した会社で学んだ、数字をオープンにする発想をとりいれました。そのうえで社員には利益の半分は賞与に配分し、もう半分は内部留保に回し次の設備投資に向けていくことを伝えました。限界利益(売上高-変動費)を増やせば、賞与も増えるというように考えられると、現場からいろいろなアイデアが出てくるようになるものです。

 

部門ごとに売上と利益を出すようにしたのですが、部門によっては繁忙の差があり不満が出てきます。そこで仕事の少ない部署が忙しい部署に手伝いに行けば、加工賃を請求できるようにもしました。

川嶋氏
川嶋氏

ズッキー
ズッキー

新しいことをやろうとすると、どうしても社内から反対が出てくると思いますが、どう対処されたのですか。

先ほども言ったように、何をするにせよデメリットは必ずあるものですがそれを上回るメリットがあればやってみます。そこはトップダウンでやらないといけないでしょう。失敗したらやり直せばいいんです。

川嶋氏
川嶋氏

社内工賃の記録が面倒くさいなどという反対論はありましたが、大した時間ではありません。それよりもこの仕組みを入れることで安定した業績を上げていくことが大事だということを伝えました。

 

もう一つは、このやり方を導入する手前でボーナスを増やしました。先に仕組みを導入して、それから実績に応じてボーナスを増やしてもよかったのですが、まずボーナスを増やしたほうがうれしいでしょうし、やり方次第でボーナスが上がるんだという意識を持ってもらうことができるだろうと考えました。

川嶋氏
川嶋氏

▲社内イベントにて若手社員と

ズッキー
ズッキー

投資する場合には費用対効果を測ると思いますが、やる、やらないの判断の基準は設けていますか?

投資は賭け事ではないので、どのくらいの確率だからゴーサインを出すというような考え方はしていません。それよりも、もし投資した設備が思った以上に稼働しなかったとしても違う製品づくりにも転用できるのではと考えて決めることが多いですね。そうすれば失敗したとしても完全な失敗に終わることはありません。

川嶋氏
川嶋氏

 

 

 

人との縁は、あとから星座のようにつながっていく

ズッキー
ズッキー

なるほど、勉強になります。それでは最後の質問です。御社の創業者は開発が得意で、2代目のお父様はお金の管理が上手でした。3代目の川嶋さんどのようなキャラクターであるべきと考えていますか。

私は、得意なことは得意な人に任せていくことが好きです。自分にないものを持っている人は光って見えますし、それを生かしてあげることができればと思っています。

川嶋氏
川嶋氏

あと、あれこれ社内のルールを決めることは好みません。私の中で社員にやってほしくないことはただ一つ、嘘をつかないでほしいということです。失敗も共有すれば次に失敗をしなくて済みます。隠すのはいけないと伝えています。

川嶋氏
川嶋氏

ズッキー
ズッキー

お話を伺っていて、人を大切にされているなと言うことをとても感じます。

ある人に会うことを目的に、誰かに口利きしてもらって会うというのはしたことがありません。ただ、出会った人との縁を大事にしたいと思ってやってきました。最近になって思うのは、人との縁を大事にしておくと、それは星座のようにあとからつながるんだな、と。お会いした時点では何の繋がりもないと思っていた方と、あとになって深く結びつくことを何度も経験してきましたから。いろんな人に会っておくとよいと思いますよ。

川嶋氏
川嶋氏

ズッキー
ズッキー

今日は、力をいただける言葉をたくさんいただきました。ありがとうございました。

 

 


【栃木】

栃木精工 株式会社 https://www.tochigiseiko.co.jp/

代表取締役社長 川嶋 大樹 氏


 

■取材した人

ズッキー

1994年生まれ。大阪で140年続く老舗鰹節屋に生まれてしまった生粋のアトツギ。専門商社退職後、東京で動画制作会社を創業。最近は本業にも徐々に関与するようになってきたため、起業家と後継者のハイブリッド型のアトツギの道を探る日々。趣味は料理。最近魚を三枚におろせるようになったことを周囲に自慢してはスルーされている。

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