山形発、世界を魅了する「誰にも真似できないモノづくり」
佐藤繊維株式会社
代表取締役社長 佐藤正樹氏
1932年に創業した佐藤繊維は、山形県寒河江市に拠点を構える、紡績・ニットメーカーである。元は国内のウール衣類製造の元となる、羊の飼育を始めたことがきっかけで産業が生まれた。以来、独自製法の糸で作り出されたオリジナリティ溢れる糸とニット製品は、世界中から支持されている。2009年にはオバマ大統領就任式典の際、ミシェル夫人が着用したカーディガンに佐藤繊維の糸が採用され大きな話題になった。
4代目社長の佐藤正樹氏は、下請け業を続けていては先がない、と早くから独自の紡績技術の開発を行なってきた。現在は糸とニット製品の販売だけにとどまらず、ライフスタイル全般を提案する小売業まで手掛ける。
山形の小さな工場から紡ぎだされた糸が今、世界を魅了している。その背景にあるヒストリーを聞いてみた。
出典:令和2年度中小企業庁/プッシュ型事業承継支援高度化事業/「ロールモデルのクローズアップ」事業「継ギPedia」(http://tsugipedia.com/)
最後の最後まで、後を継ぐ気はなかった
早速ですが、佐藤さんは幼いころから家業を継ぐつもりはあったんでしょうか?
そうなんですか。そんな佐藤さんがなぜ、繊維業界に興味を持ったのですか?
中学生のときにボクシングに夢中になって世界チャンピオンを目指していました。親には協力してもらえないから、新聞配達で稼いでボクシンググローブを買って。でもチャンピオンにはなれなくて、人生で初めて挫折を味わいました。だからといって家業は継ぎたくなかった。同じ繊維を扱うにしてもモノづくりじゃなくてファッションの方面に進みたいと思って、東京の服飾デザイン学校に入りました。
いろいろと葛藤があったんですね。
若いうちからね(笑)。3年勉強して卒業後もやっぱり山形には戻らずに、アパレル企業に就職しました。ここで今度は営業企画の仕事に夢中になりましてね。
アパレル業界の営業企画って、どんな仕事なんですか。
マーケティングをして、デザイナーと一緒に企画を考えてデザイン画を出す。分かりやすくいうとそんな感じです。これが自分に合っていたみたいで、社内で二番目くらいの売上を上げていました。バブルだったので給料もものすごく良くて(笑)。かなり派手に楽しくやっていましたね。
家業に戻るきっかけみたいなものはあったんですか。
基本は「東京で何かしたい」気持ちのほうが強かったけど、今のかみさんと知り合って結婚を意識するようになってから、考え方が少し変わってきました。今後もファッションの仕事を続けるにしても、表面的なデザインだけじゃなく、技術面も学ばなければと思い、素材から学び直すつもりで山形に帰りました。その時も、いずれは東京で仕事をするつもりでした。
言われたものだけを作っていては意味がない
戻られてからはどんな仕事に取り組んだんですか。
いろんな現場で下積み経験を重ねました。紡績、ニット、全工場を周って勉強。当時コンピューターの機械が出回り始めていたので、ニット部でプログラムの勉強も始めました。
下積みにはどのくらい時間をかけたんですか。
だいたい1年くらいかな。企画営業も担当していたのですが、この辺りから時代が大きく変わってきて、国内の企業が人件費の安い海外に拠点を移し始めました。
私が山形に戻ってきたときが日本の国内生産のピークで、そこからみるみる売上が落ちていくんです。周囲には私が戻ってきてから仕事がなくなったように見えたでしょうね(笑)。でもリストラという言葉は思い浮かばなかった。受注がなくても工場の動きは止めませんでした。受注がないにも関わらず、自分で糸を買って、デザインして、工場を回して、イベント会場を借りて妻と二人で週末に売りに行って…。でもそれが意外と好評でね。変わっていて面白い商品だって。このとき、リスクを背負ってモノをつくるということを学びましたね。そうこうしているうちに、ある会社が「海外との差別化ができるような商品を企画・提案をしてみて」と言ってくれたんです。
厳しい時代だったからこその、チャンスだったわけですね。
そう。そこでいろんな企画を自分たちでつくるようになって、また仕事が面白くなっちゃって。周りが売れているものを追いかけているなか、僕だけ変わったものを持って行ったらどんどん売れるもんだから「言われたものじゃないモノをつくる面白さ」みたいな、今の原点のようなものを経験できたんじゃないかと思います。モノづくりなんて大っ嫌いだったのに、ボクシングをやっていたころのように、のめりこんでいくようになりました。
イタリア職人との出会いが、ターニングポイントに
モノづくりをする上で佐藤さんを突き動かす、原動力みたいなものはありますか。
本場ヨーロッパの現場を見たいと思ってイタリアの工場に見学に行って、そこで現地の職人さんたちに言われたんです。「俺たちが世界のファッションの元を作っているんだ」と。彼らは機械を改造しながら自分たちだけの糸を作っていて、展示会に出すと、それを世界のデザイナーたちがこぞって買うわけです。
誰かに言われたものじゃなく、自分たちで新しいトレンドを作り出しているというのを目の当たりにして、僕はものすごく衝撃を受けました。
なるほど。それが「佐藤繊維スタイル」になって、あえてトレンドを追わないというところにつながっているんですね。
もうハンマーで頭を殴られるくらいの衝撃だったんですよね。僕たちもその頃いろいろ新しいものは出していたんだけど、結局周りの力のある企業に安く仕上げて真似されちゃうんです。正直工場見学に行った時も最初は、僕たちも「あ、これなら真似できるな」という気持ちだったんだけど、それじゃダメなんですよね。彼らのスタイルを見た上で、自分の発想で新しいものを生み出さなくてはいけないと。
改良を重ねてようやく形になった、オリジナルの糸
イタリアから戻ってきてすぐに新しい糸の開発を始めた時、社員の皆さんはついてきてくださったんですか。
人の心って簡単には動いてくれないですよね。一生懸命やっていたのは、僕と技術者の2人だけ(笑)。特に営業からは「そんなもん、誰に売るんだ!?」って。当時は商社相手にトン単位で販売していたんですけど、僕がやりたい糸は1キロ単位で販売するビジネスだったんで、商社には売れないわけです。
となると、販路の開拓も難しいですよね。
商社が難しいとなると、デザイナーに直接見せるしかないけどそんなツテはない。お客さんを自分で見つけるために東京の有名な展示会に出店しました。演出の仕方も、もちろん商品もめちゃくちゃこだわってブースを作ってね。そしたらとてつもない反響がありまして。一気に日本中に「佐藤繊維」という名前が広がって、日本中のデザイナーさん、アパレル企業から引き合いが来たんです。
それはすごい!
でもその糸は2か月くらいの特急で作ったものだったから、販売後のクレームも多かったんですよ。ここからはもう「プロジェクトX」みたいな話。工程もゼロから見直して、改良に改良を重ねてようやく「佐藤繊維式糸の作り方」が確立していくわけです。
努力の結晶ですね。
今まで誰にも作れなかった繊細なモヘアや、グラデーションの糸を作ったりできるようになりました。初めてイタリアに行ってから、3年くらいかかりましたね。いやぁ、長かった(笑)。
「売りたい相手が誰か」を常に考える
ようやく自分たちのやりたいことが形になったんですね。佐藤繊維さんのようなこだわりの衣類を販売するために、意識されていることってありますか。
ネットでのプロモーションは工夫しています。ファッションの世界とは全く関係のない、生き方がものすごくかっこよくてフォロワー数が多い人を私がプロデュースして、彼らをイメージした服をデザインしてSNSで一緒に発信していきました。期間限定で1週間だけ。でもびっくりするぐらいの受注がありました。
一着3万円以上する洋服をネットで売上げているブランドって、そうないですよね。
それと、小売りが倒れたら僕らは本当に消えてしまう可能性がある。売り方を変えるためにテレビ通販「ジュピターショップチャンネル」にも2003年頃から出演しています。
テレビ通販まで!
時間をかけて商品の説明をできるのがテレビ通販の良いところです。高齢の方でもすぐ購入しやすいシステムを取り入れていて、放送直後に完売するくらい好評です。若い世代向けにはyoutubeチャンネルも始めました。
一方で他社の事業も承継されているのは、どういった理由でしょうか?
例えばレースを作っている会社は特殊な技術を持っていて、世界でそこでしか作れない製品があるんです。この6年で3社引き受けていますが、日本で唯一の技術や、特殊な産業資材を失うと、弊社の商品もつくれなくなってしまう。それにゆくゆくは雑貨や小物、書籍、飲料など、トータルブランディングを確立して、もっと山形に人を呼びたいと考えているので、赤字事業であっても前向きに引き受けてやりたいことの幅を広げていきます。
世界で初めての、農業から小売りまでをやる企業を目指して
佐藤さんは10年後の会社の姿をどう考えられていますか。
創業当時の話に遡りますが、佐藤繊維は羊を飼うところから始まった会社なんです。
かつて寒い国で戦う時の軍服製造にウールの需要が高まったのですが、当時の羊の飼育技術では日本の湿潤な気候に対応できず、原料は輸入に頼っていました。太平洋戦争で輸入が止まった時、日本独自の発想で「家屋の中で羊を育てる」という計画が始まって、山形や福島など東北地方は羊毛の一大産地になったのです。
祖父と祖母は羊を育て、さらにその羊毛を紡いで糸を売り始めたのですが、羊を飼うとこから繊維の販売まで手がけるのは、世界的にも例を見ないビジネスモデルだと思います。
これが佐藤繊維のルーツ。だから僕はいずれ牧場を経営して「羊おじさん」になって一生を終えようかと思ってます(笑)。
羊おじさんですか(笑)。
山形に父が運営している牧場があって、そこで羊を飼育して、紡績、染色、ニット、織物などに展開するんです。世界で初めて、農業から小売りまで一気通貫で生産できる企業になる。それが僕の最終的な目標です。これから息子も家業に戻ってくる予定で、そんな未来を話しています。
今こそ地方の作り手が第一線に立つ時
今20代、30代のこれから挑戦しようと思っているアトツギへ、エールをいただけたら嬉しいです。
まずは「好きになる」ことが大事なんじゃないかと思います。僕は世の中にないものを作り出せる可能性を見出して、繊維が好きになり、家業が面白くなってきました。
そして夢を持つこと。例えば僕の今の夢は農業から販売までの一気通貫ですが20年前は「いつかはイタリアの展示会に」という夢を持っていましたし実際にその夢を実現しました。へこたれそうなことがあっても目標があれば目先のことにいつまでも囚われません。
それと、特にモノづくりの皆さんに言いたいのは、これまでは大手上場企業がマーケットを牛耳ってきたけど、その時代はもう終わったということ。作り手が自分たちの手で売ったらもっと豊かになれます。そのためにはデザイン、売り方、ビジネスについても勉強しないといけないけど、今がまさに、地方のモノ作りをしている人たちがビジネスの第一線に立つチャンスだと思います。
僕はニットで世界を変えようと本気で思っている。「カシミヤとはこういうもの」「ウールとはこういうもの」という世界の認識を根本から変えていこうとしています。家業に新しい価値を見出せるのはアトツギです。先代の事業を継承するだけが自分の仕事ではないと、今の若い方たちは知っているはずです。新しい発想で時代の最先端に立って、日本のモノづくりを守っていってください。
貴重なお話、どうもありがとうございました。
【山形】
佐藤繊維株式会社 https://satoseni.com/
代表取締役 佐藤 正樹 氏
■取材した人
サモアン
1990年生まれ。東京出身。公務員家庭に育つ。六大学野球では日本一を経験し、全てのビジネスワードを野球用語に置き換える根っからの野球好き。卒業後は、日本を代表する大手金融機関に就職。
体育会系の粘りの営業スタイルでMVPも獲得するなどサラリーマン人生も好調。でも「いつかは起業したい」という思いもあり、後継者不在の会社の経営者になるM&Aに興味津々。
勝負球は140kmを超えるストレートとしょんべんカーブ。