命令はしない、方向だけ示して後は任せる。売上125億のグループを率いるリーダーシップ
株式会社田名部組
代表取締役社長執行役員 田名部智之 氏
青森県八戸市に拠点を置く田名部組は、大正13年に創業者が大工として建設業へ参画して以来、土木建築工事を中心として地域のインフラ整備に貢献してきた。M&Aなどにも積極的に取り組んでおり、現在グループ全体の売上は125億円にのぼる。
「当時の専務から『別企業で働くと仕事の進め方に余計なクセが付く。地方ゼネコン独特の交渉術を早く教えるためにも戻ってきてくれ』と懇願されて家業に入りました」
そう語るのは、大学卒業後すぐ家業に入った田名部智之社長。26歳で常務取締役に就任し、31歳で代表取締役に就任した。
経営を立て直すために、役員を総退陣させ自身も代表の座を退いて株主に代表の再選出を任せ、社内ルールや人財育成制度を整備し、大胆かつ華麗に改革を進めていった田名部社長。
一見、強烈なリーダーシップのように思うが、実は命令をしない「任せる」スタンスを貫いている。田名部社長に、そのスタンスを貫ける理由やこれまでの経験、あわせて2018年に突然の打診を受けた親族外承継のエピソードも伺った。
出典:令和2年度中小企業庁/プッシュ型事業承継支援高度化事業/「ロールモデルのクローズアップ」事業「継ギPedia」(http://tsugipedia.com/)
「地方ゼネコンの仕事術を早く覚えるべき」と、大卒後すぐ家業に
僕自身、大阪の鰹節屋のアトツギなので当事者目線でお話しを伺えればと思います。まずは事業概要から教えていただけますか。
建設業でして、いわゆる「地方ゼネコン」と呼ばれるような存在です。大正13年に、創業者である祖父が大工として仕事を始めました。やがて土木建築工事に重点を置くようになり、地域のインフラ整備を手掛けています。
当時の大工さんは、のれん分けのような形で創業される方が多かった?
祖父は農家の次男でしたが、当時は家督相続の時代だったので長男である祖父の兄が事業や土地や財産などすべて継いで。次男以降の道は決められていなかったので、小学校を出てすぐ大工に弟子入りして5年働き、現在の高校生くらいの年齢で独立したそうです。
すごいですね。田名部さんは、家業を継ぐことを子どもの頃から意識されていましたか?
僕は妹が2人いる長男なので、幼いころから後を継ぐつもりでした。けれど父は、私に会社を譲ったら潰れるだろうと思っていたようです(笑)
それはなぜ?
まるでジャイアンのようなガキ大将キャラで、かなりやんちゃだったんです(笑)あまりにひどかったので、「力を別のところに使わせるためにもスポーツをやらせた方がいい」ということで、6歳の頃にアイスホッケーのチームに入団させられました。今でもプレイヤーとしてアイスホッケーは続けています。
だからガタイがいいんですね!
大学では体育会のアイスホッケー部に所属して、部活に熱中しつつ、ときに飲んではやんちゃをするなど、社会人になる前まではめちゃくちゃでした(笑)
学生時代はかなりやんちゃだったんですね(笑)ちなみに、大学卒業後にすぐに家業に入られてますが、それはなぜ?
私は一度別の企業に就職して経験を積んでから家業に入りたかったんです。でも、当時の専務に「別企業で働くと仕事の進め方に余計なクセが付くかもしれないし、地方ゼネコン独特の交渉術を早く教えるためにも戻ってきてくれ」と懇願されてしまって。無理やり八戸に連れて帰られました。
一度外の世界を経験したいと思っていた中でそう頼まれて、葛藤は無かったですか?
外で経験を積む機会が失われることは残念でしたが、「家業に戻って勉強して、その経験をいずれ幅広く活用しよう」とすぐに切り替えました。
倒産寸前まで落ち込んだ売上……立て直すために31歳で代表取締役に就任
田名部さんが家業に入られた当時の業績はどうでしたか?
ちょうど当時がピークで、その後公共事業の削減政策の影響も受けて、どんどん落ち込んでいきました。
26歳という若さで常務取締役に就任されていますが、これはどのような経緯で?
建設業には、5年以上役員のポジションを務めていないと社長に就任できないという独特のルールがあるんです。父親は「60歳で引退する」と宣言していたので、逆算すると私を早く役員にしなければいけない、ということで決まりました。
ご自身で、「今のうちから取締役に就任させてほしい」と言われたのですか?
いえ。家業に入って2~3年経った頃に父親から「お前は何もやってない。そんなんじゃ全然ダメだ」と言われまして。もちろん業務はきちんとこなしていたんですけど、何も残せていないという意味でですね。実際は会社の改革案を提案していたんですよ。父親に却下されてましたが(笑)
そうなんですね。お父様にそう言われて新しいことに取り組まれたんですか?
当時八戸でISO9001の認証を取得している企業が無かったので、先駆けで取ろうということになり、私がプロジェクトを主導して1年で取得しました。その成果を認める証のような形で、役員に就くように言われたんです。
そして31歳で代表に就任されていますが、このタイミングで継がれたのはどうしてですか?
私が31歳のとき父親は60歳手前だったので、あと数年は父親が代表を務めるものだと思っていました。しかし、倒産寸前まで当社の売り上げが落ち込んで。ピーク時は74億円ほどだった売上が10億円台まで下がったんです。債務超過に近い、非常に厳しい状態でした。父親と銀行の担当者の方との関係性も悪化して「改革を推進しない社長」というレッテルを貼られ、「今の体制では支援できかねます」と最後通告もされて。廃業か、体制を一新して存続するかの二択を迫られ、やむなく私に交代しました。
そんな厳しい状況での交代でしたか。
ちなみに、田名部さんが社長に就任されて1年後に、取締役が総辞職されたというトピックを記事で拝見したのですが、これにはどのような背景が?
もともとは父が任命した役員陣とともに事業を進めていたのですが、彼らが私のような若造の言うことに従うわけもなく抵抗勢力となってしまって。銀行交渉もうまくいかず、売上もさらに厳しくなったんですね。それで、私が辞めるか会社を無くすかという状況に再度陥りまして。
えっ、そうなんですね。汗
それまでの私は役員陣の言うことを聞いて、折り合いをつけてやってきました。けれど、社長に就任するときに叔父から言われた「言い訳はするな、その代わり思い切ってお前の好きなようにやりなさい」という言葉を思い出して。遠慮して人の言うとおりにして「ダメでした」で済む問題じゃない。だから、誰にも遠慮することなくやってやろうと思いました。そこで、役員を総退陣させ、私も辞めたんです。そして、改めて株主に社長を選出してもらったのです。結果として私が選ばれたので、新体制を作りました。
どんな方を新役員に任命されたんですか?
言葉と行動が一致している者ですね。あとは、価値判断基準が合う者です。イエスマンではなく、良いものは「良い」、悪いものは「悪い」とはっきり言える、信用できる人間を選びました。
社員教育やルールづくりなど組織改革を敢行。あくでま「任せる」姿勢を貫く
そこから田名部さんの組織改革が始まっていったのだろうと思いますが、まずはどういったことから?
恥ずかしい話ですが、うちの会社は挨拶ができない社員も多く、会議も無く、人財育成制度も無いという状態でした。社員数は私が常務に就任したころ、すでに40名ほどいましたが、社内全体が企業ではなく家業のような意識だったんです。まずはそこから変えていかねばと思いました。事業計画はもちろん必要ですが、うちに足りないのはそれ以前の基礎。基礎工事無しに建物を立てることはできないですよね。基礎から徹底的にやろうと思いました。
今までのやり方を変えるという点で、社員の方からの反発も当然あったと思うんですが、どうやって推進していったんですか?
「これをやりなさい」と私から言うことは基本無いんです。ただ、待ってるだけでは社員から改革案が出てくることも、社員が変わることもないですよね。だから、石を池に投げ入れて波紋を作るように、私からきっかけだけを提供するんです。
たとえば、どんな風に?
何かトラブルや困りごとが起きたときがチャンスです。私が徹底的に解決に乗り出します。すると、トラブルが起こった原因を探り、解決法や再発防止策を考える過程の中で、必ず「社員教育が必要だ」「研修が大事だ」「人事のルールを作った方がいい」という結論に至るんですよね。そこからのルールづくりは社員に任せています。給与制度や人事制度もすべて社員が作りました。
たとえば挨拶についても、「挨拶をしなさい」というのではなくて、「この先、継続的に仕事を取っていくためには礼儀が重要で、挨拶をきちんとすることも大事」だと気付かせていくような感じですか?
そうですね。まずは、「お客様から社員の言葉遣いについてクレームがあったが、どうすべきか?」ということを役員に聞きます。改善に繋がる良い案が出れば採用しますし、出なければ「朝礼を実施するのはどうだろう?」などと私から提案するんですね。命令ではなく提案です。それが他案と比べられたうえで「これをやろう」と決まったら、不満も生まれませんから。
なるほど。
うちの社員は優秀なので、ルールを作ることもできるし、決めたことをきちんと守ることもできます。ただ、任せっぱなしだけでもうまくいかない。だから、私が方向付けだけ担っているようなイメージですね。「東北で一番の建設会社になる」という最終ゴールを共有した上で、「そのためにはどうすればいいか」をみんなで考えてやっていっています。
出来ていないことを見つけると、つい「これをしなさい」と命令したくなることもあると思いますが、田名部さんが社員に任せるスタイルを取れているのはなぜなのでしょう?
社員のことを尊敬しているからですね。私は面接もせずここに入ってきたけれど、皆さんは面接などを経て入社している。それに、資格や能力やノウハウなどそれぞれの武器を生かして働いてくれています。私は外での経験も無いし何も持っていないので。
社員さんへのリスペクトがあるからこそ、見守りの姿勢を持てているのですね。改革が進んでからは、業績も良くなったのですか?
社内改革が進むと、運も上がるし評判も上がるし品質も良くなるんですよ。どんどんいいスパイラルになって、私が就任して以来ずっと売上は右肩上がりです。八戸で売上1位に返り咲くこともできて、やっと家業を脱却して企業になることができたように感じています。
親族外承継やM&Aも推進してグループ売上125億円の規模に成長
田名部さんは、2018年に十和田や八戸を拠点とするハウスメーカー・ジェイホーム株式会社も親族外承継されていますよね。どういった経緯で承継されることに?
アトツギがおらず困っていた創業者の方が、「ジェイホームの商品と社員を大事にして、会社を成長させてくれそうな人に事業を預けたい」という思いを抱く中で、当社の取り組みを見聞きしてアプローチしてくださったんです。
面識は無かったんですか?
はい。ただ、当社も家づくりの事業を手掛けている中でジェイホームとはよくバッティングしていて。「これは勝てないな」と思うほど、いい家を作られる素晴らしい企業だったので、名前は知っていました。
どのようにして承継を決断されたんですか?
社員教育の一環で、若手社員に田名部組の未来像を考えてもらう「ビジョンボード」という研修がありました。「当社が売上100億円を達成するためにはどうすればいいか」というお題を与えていたのですが、なかなか新しい発想が出てこないんですね。それで私が、「住宅部門のお客様はまだまだ増やすことができる。うちだけで頑張っても10億くらいが限界かもしれないが、同じ思いの仲間と一緒になる選択肢をとることで、より大きな売上を目指せる」と常日頃話していたんです。だからこそ、秒で承継を決断できました。
そうなんですね!毛色の違う組織の運営は大変ではないかと思うのですが、いかがですか。
取締役社長以下、素晴らしい役員陣が揃っているので、目指すべきビジョンや方向性だけ伝えて「好きにやってください」と任せています。承継後の決算では毎回最高売上をあげていますよ。2年前に事業継承した建設会社も、売上4000万かつ債務超過の状態から売上4億まで立て直すことができました。今ではグループ全体の社員数が280名ほど、売上は125億まで成長しています。
すごい。社員さんが自発的に動いて改革が進むように仕組み化されているんですか?
していないです。基本的には役員陣に権限を持たせて好きにやってもらいます。「最終責任だけ私が取るから」と伝えて。たぶん、社員に過度な期待をしていないのがいいんだと思いますよ。「完璧な案を出せ」なんてまったく思っていませんから。1つでも良い案が出てきたら十分だし、私が一人で考え込むよりも300人が10案ずつ持ち寄る方が絶対良いものが出てくるでしょう。
勝手ながら、「地方の伝統的な企業は、トップダウン体質の企業がまだまだ多いのかな……?」というイメージを持っていました。そんな中で、田名部さんは社員に考えさせる、新しいリーダーシップを体現されていて非常に勉強になりました。ありがとうございました。
【青森】
株式会社 田名部組 http://www.tanabugumi.co.jp/
代表取締役 田名部 智之 氏
■取材した人
ズッキー
1994年生まれ。大阪で140年続く老舗鰹節屋に生まれてしまった生粋のアトツギ。専門商社退職後、東京で動画制作会社を創業。最近は本業にも徐々に関与するようになってきたため、起業家と後継者のハイブリッド型のアトツギの道を探る日々。趣味は料理。最近魚を三枚におろせるようになったことを周囲に自慢してはスルーされている。