家業のプリント技術で学生起業、自社ブランドで目指すは世界とD2C
有限会社ぬまくら(ICHINOSAI)
代表 沼倉佑亮 氏
秋田県湯沢市の「ぬまくら」は、まもなく創業50年のプリント加工会社。3代目の沼倉佑亮さんは、24歳で家業に戻ると「ICHINOSAI(いちのさい)」のブランドを発足。家業のプリント加工技術を活用し、アパレル製品のデザインから製品を提案する事業を展開している。
その前身となったのは、学生時代の経験だ。起業ブームでIT関連で起業する学生がひしめく中、家業のプリント加工技術を活用した事業で事業を起こす。卒業・就職でいったん区切りを付けたものの1年後に家業に戻り、事業を本格的に再開した。
今、28歳。「人に会って話す」を徹底したことで得た、数々の出会いと学び。貪欲に行動し、チャンスを見出してきた。「いい意味で放っといてくれた」父との付き合い方、地元秋田や東京への思い、そして今後の事業展開のビジョンなどを聞いた。
出典:令和2年度中小企業庁/プッシュ型事業承継支援高度化事業/「ロールモデルのクローズアップ」事業「継ギPedia」(http://tsugipedia.com/)
「バイトしたくない」から家業の資源を活用して学生起業
御社の業務内容を教えてください。
祖父が創業者で、僕は3代目です。アパレル製品などのシルクスクリーン印刷を得意とする会社です。父の代は、プリント加工だけを請け負う業態ですが、私は、自社で商品を企画して生地とデザイン込みで納品する「ICHINOSAI」という自社ブランドを展開しています。
後を継ぐ意識はいつごろから?
高校生ぐらいから継ぐものだと思ってました。東京の大学に入って、家業に関連したビジネスで起業しました。アルバイトをしたくなくて。「学費を払ってもらって時間を買ってるのに、それを時給のアルバイトで他企業に切り売りするのはおかしい」と父に言われてたんで、1時間の価値を高めるのは事業をするしかないと思ったんです。
それで今の「ICHINOSAI」の事業形態を思いつきました。卒業でいったん事業は家業に渡して就職したんですが、その後1年で家業に入りました。
学生起業家といえば、IT関連が多いでしょ。僕も大学時代、ウェブ制作をかじったことがありましたし。でもあえて家業にまつわる業態を選んだ理由は?
「何だったら勝てるか?」と考えたとき、自分の持っているリソースを使った方が絶対いいと思ったからです。それにウェブ関係はみんなやっているから、違う方がいいと。
僕の実家も鰹節屋なんですけど、家業関係で何かやっとけばよかったな。学生起業家では競合いなさそうだし(笑)。でも「起業」が身近なものだったんですか?
当時、起業家サークルの同年代がどんどん起業してて、生意気だけど僕もできるかもと。あとは「ハタモク」っていう、学生と社会人が働く目的について語り合うコミュニティに立ち上げから参加させてもらってたんですが、社会人の方に親身に相談に乗ってもらいました。2代目学生代表にもなって大学生活で約3,000人の方とお会いしました。
プリント加工の事業で起業されたわけですけど、お父さんはどんな反応でしたか?
父に「仕事を取って来たから、注文入ったらプリントしてもらえないか」と。順序が逆ですけど、相談しないで始めちゃって注文を先に取ってしまった(笑)。
お父さん、内心、嬉しかったんでしょうね。
たぶん。でもその後は大変で。営業のやり方はずいぶん模索しました。飛び込み営業したり、企業の問い合わせフォームにメールしたり、営業電話かけたり…。半年以上は事業とは呼べなかったですけど、やってるうちにお仕事はいただけるようになりました。
そこで友達を誘って、経営理念とかビジョンとか作ってみたんですけど、本当の意味での大切さを理解できなくて・・・マネジメントの挫折を味わいました。
さらに洋服の専門学校にも通ってたんで、とにかく目の前の課題を解決したい思いで必死でした。
飛び込み営業、営業電話、経営理念にダブルスクール・・・もはや学生の活動領域じゃないですやん(笑)。
早く戻ればやり直しもきく
事業がある程度波に乗っていたのに、なぜ就職を?
マネジメントに挫折したから、マネジメントされてみたいと思ったんです。就職したのが大手繊維メーカーで家業とは近い分野だし、大組織で働く経験は貴重だから。
確かに新卒のチャンスは1回っきりですもんね。1年間で学んだことは?
洋服の生地を扱う部署で、プリントに関わる仕事ができる部署に入れてもらいました。そこで、今までなかった事業を起こすプロジェクトに参画させてもらったんです。洋服生地を販売するだけじゃなく、プリント柄から提案して納品する取り組み。当時の上司に恵まれて、「みんな正解を知らないんだからやってみろ」といろいろ挑戦させてもらいました。
ファッションの情報が早く手に入る部署にいたので、「今年のトレンドはこうだから、うちの技術を使ってこんなことをしないか」みたいな情報提供を家業でやりたいと。
あと、その会社では生地在庫を抱えて大変だったので、うちでは在庫を抱えるビジネスはやめようとも学びました。
1年目でめちゃくちゃいい経験させてもらったんですね。でもそれでなぜ家業に戻ろうと?もっと東京で働きたいなって思わなかったんですか?
そのプロジェクトが、売り上げは出ていたがKPIに届かず、大きな組織の中で拡大していく難しさから、事業の方向転換を迫られるタイミングだったんです。それに、毎月給料が振り込まれることに慣れてしまったら、もう経営者として家業に戻れなくなるんじゃないかと…。
それと、家業の業績が下降していたのも理由の一つ。落ち切ってからだと難しいから、早めに対処したかった。周囲から反対もされたし、残れば楽しい事業もできたと思うけど、今は早く戻ってよかったと思っています。
当時は不安とかなかったんですか?
ありました。けど、もがいてダメだったら他の道を選べばいい。早ければやり直しがききます。家業はシルクスクリーン分野の難しい仕事をやっていた。学生時代、営業でそのプリントを見せたら「初めて見た」「すごいね」とよく言われた。秋田にいて今までの構造の中で仕事をしていたらその価値が分からないんです。でも褒められるのになぜビジネスにならないんだと、ずっと疑問でした。
家業は下請け体質で、いわれたことを実現するというものづくりだった。とはいえ、何か面白いことを生み出そうとはしていたんです。だから僕はこの構造を変えたかった。構造を変えて評価の土俵にのれば、勝ち筋はある。その1点に賭けてみようと。
先代と同じ土俵で闘わない
なるほど。でも業態転換って、既存の関係者にも影響するから、お父さんから抵抗とかありませんでしたか?
基本的に無視してます(笑)。
「ぬまくら」はお父さん、「ICHINOSAI」は自分。きっぱり分けてるからうまくいっている?
そうですね。父はいい意味で放っといてくれてます。それに「ハタモク」時代の知人も家業に戻った人がいて、彼からアトツギが新しいことをやろうとすると先代や社員と揉めるというのは聞いてたんで、そういうもんだと思ってました。
あと、父親とは同じことをしない方がいいとも思う。結果的にそうさせてもらっているので、父には感謝しています。
父親と同じ土俵で戦うからけんかやトラブルになる。とはいえ、新規事業で結果を出すのは大変ですよね。
自分の給料さえ十分稼げないから、学生のときに逆戻りでした。戦略もなく、1年ぐらい人に会い続けました。
お父さんからはなんかいわれました?
めっちゃ言われました。「やってる意味あるんか」「他の社員にお前の給料払ってもらってるんだ」とかって(笑)。聞かないふりしてましたが、「じゃあどうやって仕事を取ればいいか」と考えるようになりました。父にも社員にも結果で返すしかないと思っています。
弱者のブランディングはお金をかけないのが王道
この業界の根本の原因は、技術力と連動した評価基準がない単価。だから安売りはせず、うちはここまでやるから高いんだとブランディングを固めていきました。ある現代アーティストの仕事をさせてもらってて、単価をそれなりに上げて難易度の高い実績を作り、それを引っ提げて営業しています。
でもブランディングってお金かかりませんか?
かからないです。元々きちんとした仕事をしている自信はあったんで、どう再編集するかの問題。すぐプロに頼もうとするからお金がかかるんです。僕なんか予算がなかったから、写真も自分のiPhoneで撮ってましたし。
プロや専門家を呼ぶと、始めるまでに時間がかかり過ぎるということも大企業に勤めて学びました。スモールスタートして、必要に応じて投資していく。お金って、事業を始めるときはない方がいいと思うんですよね。
お金をかけて、ウェブをきれいに作り込んでSEO対策するのは、強者のビジネスモデル。それより、当時の僕にとっては、人に会いに行って全力でプレゼンした方が顧客獲得率は高いんです。
とにかく外に出て会話するのが大事だと。
ニーズがくみ取れるし、話が動く。ただ僕は秋田から東京に営業に通っていたので、効率性で悩んでいました。そこで着目したのが、インクや生地メーカーの営業担当者さんやデザイナー。初めは僕が彼らにプレゼンして、次に彼らがうちの営業をしてくれる。逆に、我々も彼らの紹介も営業もする。そんな仕組みを作ってからは、口コミと紹介で仕事が回っていくようになりました。
「同業にプレゼンすると、パクられるからやめとけ」ってうちの父は言うんですが(笑)。
盗まれるぐらいクオリティが高かったと思えばいいんですよ。大事なのはメリットを享受できるビジネスパートナーと会社の垣根をこえてチームを組むこと。その結果、他には真似できない仕事になるんじゃないかと思います。
東京は稼ぐ場所、秋田を面白くする
まだ都会でサラリーマンをしているというアトツギ予備軍からは、家業を継ぐことはもちろん、地元に戻ることもハードルが高いって話をよく聞きます。
秋田へ戻る決断。東京をあきらめるって、思い切りましたね。
東京は楽しくて好きだから、本当は秋田に帰りたくなかった。でも東京に住んで、事務所を構えてとかだと、甘えが出ちゃう。東京に「いる」じゃなくて「行く」となって初めて、東京は、遊ぶのではなく「お金を稼ぐ場所」と切り替わりました。
秋田で仕込み、東京で商談相手と会う。当時は経費削減のため車で。今は隔週で秋田と東京を行ったり来たりですが、距離がどんどん近くなってるように感じます。
でも「地元に同世代のおもろいやつがいない」という声もよく聞くんですよねー。
地元の記憶やイメージは高校生ぐらいで止まってるじゃないですか。でも大人になってから見る地元の景色って変わるんですよ。面白いことをしてる人は地元にも結構いるし、SNSで発信すればすぐにつながれますよ。探してないだけ。
プリントのワクワクを発信して、世界に出ていく
最後に10年後目指す姿を教えてください。
ハードルは高いけど、秋田から世界にも挑戦したいです。以前父が海外へ進出したんですが、なかなか難しい現実があった。ちょっと展示会に出るとか、商品を少量出荷するとかではなく、本質的にビジネスとして成立させて、求められるところに出て行きたいです。
秋田拠点で実現したらかっこいいですよね。
「最終的にD2Cをやりたい」という目標が、実は新型コロナの影響で実現したんです。僕らの業界への影響も大きくて、OEMの売り上げが下がったので、システム投資をして完全受注生産の直販を始めました。
プリント加工工場があるので、企画から製品を作れる強みがある。今まで在庫リスクが大きくて手を出しにくかったエンタメ業界やユーチューバーの方と手を組んで商品販売をしています。
洋服を着る、グラフィックを表現するってすごいワクワクすることだから、こういう面白さを発信する存在になりたい。モノを作ることや絵を描くことの好きな人たちが、一緒に働ける会社になればと思っています。
【秋田】
有限会社ぬまくら(ICHINOSAI) https://ichinosai.com/
代表 沼倉 克彦 氏
専務 沼倉 佑亮 氏
■取材した人
ズッキー
1994年生まれ。大阪で140年続く老舗鰹節屋に生まれてしまった生粋のアトツギ。専門商社退職後、東京で動画制作会社を創業。最近は本業にも徐々に関与するようになってきたため、起業家と後継者のハイブリッド型のアトツギの道を探る日々。趣味は料理。最近魚を三枚におろせるようになったことを周囲に自慢してはスルーされている。