この道で生きていくと決めた俳優業から家業へ、初代・二代目・番頭の思いを未来へつなぐために
株式会社 タッセイ
代表取締役社長 田中陽介 氏
東京で俳優として生きていくと決めCMなどの仕事が少しずつ増え始めた頃、創業者である祖父、2代目社長の父との間に立って、味方となってくれた母親の涙にほだされ故郷の福井に帰った株式会社タッセイ3代目の田中陽介社長。
家業に戻ってからは、先代の番頭からの厳しすぎる教育も、自ら俳優をあきらめて選んだ道だからと食らいつき、今はその番頭とともに新規事業に挑み続けている。建材卸・内装工事の経営に携わる中で祖父、父の偉大さを知り、それまでのタメ口から敬語を使うようになったという田中社長だけに「尊敬する父とはぶつかりようもない」という。
ここ1、2年でアトツギ候補のいない会社を2社M&A、自らもそれぞれの会社のアトツギ育成に奮闘する田中社長に、家業に戻ることを決めた覚悟、数々の学びの中からたどりついたアトツギとしての使命について聞いた。
出典:令和2年度中小企業庁/プッシュ型事業承継支援高度化事業/「ロールモデルのクローズアップ」事業「継ギPedia」(http://tsugipedia.com/)
舞台の迫力に打たれ、俳優の道へ
順調ですね。
ええ、でも去年から今年にかけて内装工事をしている他県の企業と木製家具メーカー2社をグループ会社化したところで、そこで悩んでいます。現在の経営者が引退を控えているのに後継者不在なんです。その2社の次の社長をどう育てるかでかなりのエネルギーを使っています。
そうなんですね。そのお話も後でお聞きするとして、俳優をしていらっしゃったんですね。
とにかく福井から東京に出たくて、大学に進学したんですけど。東京でしかできないことをやろうと思っていろんなものを見ているうちに、野田秀樹さん演出、深津絵里さん主演の舞台の迫力に度肝を抜かれまして。次の日には「よし、演劇やろう」って演劇部の門をたたいていました。
行動派なんですね。
僕にしてはめずらしくすぐいっちゃいましたね。大学の演劇部にいるだけではもったいないと外部の劇団のオーディションも受けにいっていました。
家業のことは意識していたんですか。
兄弟は妹と二人なんで、亡くなったおばあちゃんからはずっと「あんたが家業の3代目やで」と言われて育ちました。大学受験の時も商学部とか経営学部しか受けませんでしたし、いずれ帰るつもりではいたんですけどね。
それが、卒業後も俳優の道へ突き進むことになるわけですね。
もうその頃は、自分は家業のために生きてるんじゃない、自分のために生きようと開き直ってました。帰ることは考えてませんでしたね。
「あのバカ息子は」と言われても
お父様はなんと。
祖父、父からは顔を合わせるたびに「おまえはなにやってるんだ」って。社員や親戚からも「あいつは」って言われてたようです。
それで俳優の道はどうだったんですか。
まあ簡単に食える仕事じゃないです。食いつなぐためにアルバイトをするんですが、俳優業の仕事はいつ入ってくるかわからないので、アルバイトも急に休ませてもらう事になったりで転々とせざるを得ませんでした。
宮崎あおいさんと共演してるんですね。
運ですね。オーディションを受けまくってましたけど、どこに行ってもびっくりするほどスタイルのいいイケメンと美人しかいない世界ですから、だれが選ばれてもおかしくないんです。あとは人とのご縁もありますしね。
家業に戻ってからの営業でも役立つことはありましたか。
今となって思えばそうかもですね。商品を売る相手は人。相手に対していかに自分自身を売るかが大切ですね。
矢面に立ってくれた母の涙を見て家業へ
結局、俳優は学生時代から9年やって、家業に戻られたんですね。
映像の仕事をいくつかいただけるようになって忙しくなりつつあったタイミングだったんですけど。母に泣かれまして。
戻ってきなさい、と。
母は僕に「好きなことをやりなさい」と応援してくれてたんです。父や祖父が「早く帰ってこんか」という中で矢面に立って守ってくれたのですが、さすがにそれにも限界が訪れました。この先の人生も自分のためだけに生きるのか、家族のために生きるのか半年くらい悩んで戻ることにしました。
戻ってからはどんな仕事を。
しばらく倉庫番で荷物の受け入れをしたり、配達の手伝いをしたり。
なじめましたか。
僕はロン毛でチャラい感じだったので、「なんやその髪は、散髪してこい」と言われたり。この業界の人は言葉遣いも荒いし、態度も横柄だし、えらいとこ来たなあ、と不安になりました。その後、先輩について営業のアシスタントをした後に独り立ちしました。
急に「何時にこれ持ってこい」って注文が入って、別の仕事もあったので「1時間遅れます」って言ったら「大工にとって1時間の遅れは命取りや」って。先輩と同じようにやってたつもりなんですけど僕が言うと怒られるんです。
この頃がモチベーション一番低いですね。
いや、実はそれは波がないとつまらないからそう言っただけで(笑)、正直に言うとずーっと楽天的にやってきました。
なるようにしかならない、と。
苦しいことの糧があってこそ次に進めたので。今考えると言うほど悪くなかったなって。
こわもての専務に厳しく鍛えられた日々
もともとおられた社員の方との確執はなかったんですか。
父の右腕だった方が今も専務でおられるんですけど、見るからに「なにわ金融道」みたいな感じのこわもての方で。使えない社長の息子をなんとかものにしなきゃいけないと3、4年の間、仕事への臨み方、取引先とのお付き合いの仕方などむちゃくちゃ厳しく育ててもらいました。
お客様の接待では箸の上げ下ろしから言われ、次の日に二日酔いで会社に行ったら、前日の発言について「なんであんな発言したんだ」と。「いや何を言ったのか覚えてません」と返すと「こっちが言ったことはすべて覚えておけ、そんなこともできんのか」と。
よく耐えましたね。
好きな俳優の仕事をあきらめて帰ってきた以上、なにがあっても食らいつくぞという思いでした。もちろん愛情の裏返しということもわかってたので。後になって専務からも「ようついてきたな」と言われました。
入ったばっかりの頃はみんなから「おい陽介!」と呼び捨てにされていたんですけど、新規事業を担う営業企画室長になった頃から、その専務が「もう陽介と呼ぶのはやめよう。これからは室長って呼んでやろう」と言ってくれました。その後、僕が取締役になった頃に「今日を境におれはもうひとことも言わない。あとは自分で考えろ」と。
経営の神様に学ぶ
修業期間が終わったんですね。新規事業はどんなことに取り組んだんですか。
建設業界の法律が変わっていった時期で、車でいうところの自賠責保険やエコカー減税の住宅版が登場しました。そのための手続きって難しいしあれこれ大変で、だから「お客様に代わってうちが代行したり申請のサポートをしますよ」ってサービスを始めました。
事業のアイデアはどこから。
あるご縁で月に1回、全国の建材屋があつまる経営塾に参加していまして、全国の同業者の先進的な取り組みを聞いて、ああうちは遅れてるな、あれもこれもやらなきゃ、と。
社内でやりたいことは積極的にやらせてもらえたんですね。
そもそも祖父はこの業界に後発で入って、新しいことに挑戦して伸ばしてきた人なんで。父も責任は自分が持つから、社員にやりたいようにやらせてきました。だからそういう気風が根付いているんです。僕も飛び込みでプレゼンをしまくったんですけど、価値を認めてもらって受け入れてもらう喜びをそこで覚えました。
経営者の立場になったのはいつ頃ですか。
30歳ぐらいの時に取締役に就任させてもらいました。新規事業がある程度かたちになった頃のことですね。
経営者としての学びはどこから。
祖父と父は松下幸之助さんを尊敬していて、朝礼で松下幸之助さんの日めくりカレンダーを唱和している位です。また父は京セラ創業者の稲盛和夫さんが主宰する盛和塾の塾生だったこともあり、僕も盛和塾で学ばせてもらいました。
そこではどのようなことを学びましたか。
参加者には2代目、3代目の経営者も多かったので、稲盛さんはそのような後継者に対し、「現場で汗かいて必死になってる姿を見せないと社員から信頼されないぞ」「先代の番頭には仁義を切りなさい」「息子だからって役員になってふんぞり返ってはいけない。社員の皆を幸せにするためにたまたま役割をもらってるだけ。自分の力を勘違いしてはいけない」と。そういう言葉が心に響きました。
創業者から三代、同じ屋根の下で
創業者であるお祖父様、田中正義さんの事についてお聞きできますか。
実は祖父は昨年の12月、99歳で天寿を全うしまして。
それは長生きされたのですね。
そう、びっくりするくらい元気な祖父さんでしたよ。亡くなる直前まで毎日出社して仕事をしてましたし、趣味のゴルフとお酒は生涯現役、豪快で華のある人でした。社員はみな家族、という考えの元で会社をここまで成長させてきた、僕にとってもタッセイ社員にとっても偉大な存在です。
お祖父様とは、普段はどのように接していたのですか。
祖父と父と僕の親子三代が一緒に住んで、仕事している会社なんて珍しい、と言われていましたね。祖父は社内では相談役として目を光らせていましたが、家では割と普通のおじいちゃんで、夕食の時には大好きなお酒を飲みながらいつも色んな昔ばなしをしてくれました。今考えれば一つひとつのエピソードが金言で、経営者となった今、思い出しては痛感させられています。
自分も経営者になって、改めて創業者の偉大さを感じたんですね。
こわもて専務とは今はどうですか?
もちろん全面的に頼りにさせてもらっていますし、もう口出ししないと言われた今でもビシビシ言われてます(笑)。世の中の新しい流れをとらえてこんな事業をしたいと思ったら、まず専務に相談して、やるかやらないかを専務と一緒にジャッジしますね。10のうち9は専務に止められちゃいますが。かと思えば、3年後くらいに「お前が言ってたあれ、今ならやったらいいと思う」と言ってくれるんです。
どこで見極めてるんでしょう。
大都市と地方の福井県ではギャップがあって、東京では事業として成り立ってることでも福井では新し過ぎて受け入れられなかったりします。それが地方でも受け入れられるタイミングを見図っているんでしょうね。
アトツギを育てる大変さを痛感
今後はどのようなところを目指していますか。
ひとたび挑戦をやめれば事業は落ちていく一方なので、売り上げも利益もこのままでいいとは思っていません。稲盛さんが言われるところの経常利益率10%を達成しながら、現在のグループの売り上げを8年後には今の1.6倍にする事を目指しています。
ただそれを達成するのは何のためかと言えば、一緒に働いている社員に物心両面で幸せを実感してもらうためなんです。松下幸之助さん的に言うと売上高は社会に役に立った数字を表しているということなので、それは経営者のエゴではなく社会のためと思って大きくしていきたいです。
今後の事業の展開については。
材料+工事を強みにやってきたので、周辺の工事やサービスを広げられないか常に考えています。工務店さん向けに後継者育成塾を開いているのですが、電気屋さん、左官屋さん、基礎屋さんでもいい会社なのにアトツギがいないところが多く見受けられます。その中でタッセイと一緒になってやっていけそうな会社をこのほど2社M&Aしました。今後を考えているんですけど、けっこうコレが大変で。
どう大変なんですか。
それぞれの会社で次に社長になる人を育てようとしているんですけど。営業や製造の現場で頑張ってくれている社員に急に経営を、と言ってもなかなか難しい。次に任せられる人を育てる大変さを痛感しているところです。祖父や父の凄さが改めて分かります。
ちなみに息子さんには継がせるつもりですか。
7歳の息子には「建材屋の仕事ってやりがいがあって皆の役に立って、こんなにいい仕事ってないぞ!」とわざと言っています(笑)。継ぐ継がない以前に、まず父親である自分が楽しそうにやってる姿を見せて、家業をダサいって思わせないことが大事だと思ってるんで。
無理強いでなくて、自然に家業に興味が持てるかもしれませんね!
色々とお話を聞かせていただいてありがとうございました。
【福井】
株式会社 タッセイ https://www.tassay.co.jp/
代表取締役社長 田中 陽介 氏
■取材した人
ズッキー
1994年生まれ。大阪で140年続く老舗鰹節屋に生まれてしまった生粋のアトツギ。専門商社退職後、東京で動画制作会社を創業。最近は本業にも徐々に関与するようになってきたため、起業家と後継者のハイブリッド型のアトツギの道を探る日々。趣味は料理。最近魚を三枚におろせるようになったことを周囲に自慢してはスルーされている。