自ら考え、誇りを持てる会社づくりを目指して。父と衝突したときは、9割譲って1割取る
株式会社京葉エナジー
代表取締役 岩﨑剛士 氏
京葉エナジーは1994年、岩﨑剛士社長の父が産業廃棄物の収集運搬業として創業、産廃の中間処理場の事業も手掛けている。
2代目の岩﨑社長は、ホテル勤務などを経て29歳の時に家業へと戻ってきた。34歳で社長に就任してからは新たな事業として、回収した古紙を資源物にする古紙プレス業、中規模ラグジュアリーホテルを対象とした客室清掃業も新たにスタート。2018年には、業界のイメージを一新するような瀟洒なデザインの本社社屋を新設している。
「誇りを持って働ける会社」「全社員がやりがいと責任を持って働ける会社」「ワクワクできる会社」の3つのビジョンを定め、社員と価値観を共有できる会社づくりを目指す一方、会長の父とは「今でも意見の相違がありそれが一番のストレス。だが対話から逃げないことを心掛けている」という。経営で大切にしていること、そして先代との折り合いの付け方などについて岩﨑社長に聞いた。
出典:令和2年度中小企業庁/プッシュ型事業承継支援高度化事業/「ロールモデルのクローズアップ」事業「継ギPedia」(http://tsugipedia.com/)
2回転職した後、家業に戻る
千葉の浦安にある大学に進学したのですが、就職時にはやりたいことがなく、就活もせずにいたところ、アルバイトをしていた舞浜の外資系ホテルから面接を受けないかと声をかけてもらい、運良く拾ってもらいました。
2回転職しているようですがその理由は。
ホテルは人気の高い業種なのですが、イメージばかりが先行していて実際には肉体労働が多く、そのギャップで多くの同期が辞めていきました。私自身は直接お客様の声が聞けるドアマンの仕事にやりがいを感じていたのですが、このまま同じ環境で働き続けるのかと考えた時、次のステップとして人事や経営の仕事に携われるようキャリアを変えていきたいと考えました。そこで人材教育コンサル会社が運営する人材派遣会社に転職しました。
その会社で3年働いた後、前職の上司から新宿にある系列のホテルへのお誘いがありました。まずは営業職に就き、人事部への異動を待っているところで、なんの前触れもなく、ある平日の昼間に父から電話がかかってきて「うちの会社はどうするんだ」と聞かれたのです。
家業に戻るにあたって自らに投げかけた二つの問い
それでどう返事をされたのですか。
いきなり決断を迫られたので1カ月くらい考えました。その時に二つのことを考えました。まずは、誇りをもって働ける会社かどうか。誇りを持ってやりたいことができる会社であればアルバイトでもなんでもいいと思っていたので。どうやらそれはできそうだと思いました。
もう一つは、経営者が自分に務まるのかという不安です。その当時で従業員が60名、さらにそれぞれの家族を入れると180人の生活を、命をかけてでも守る覚悟があるか自分に問いかけました。自信があったわけではありませんが、やろうという覚悟はできたので入社を決めました。
入社するにあたって自分の中で決めたルールのようなものはありますか。
まず、頭の中で親子の縁を切りました。入社してからはプライベートでも父を「お父さん」と呼んだことはありません。情を戒め、あくまでも父を雇い主として接するようにしました。二つ目は、先代と社員との懸け橋になることです。社員はどうしても社長にものを言いづらいものです。社員が言えないことを社長に伝え、逆に社長が伝えたいことを社員にかみくだいて伝えるようにしました。社員の声を代弁して社長とけんかしたこともあります。
ゴミ収集車のトラックドライバーです。社長の息子というだけで事業を知らない人間が急に入ってきて何を言っても説得力がないと思ったので、社員と同じ景色を見て同じ目線でものを言えるようにまず現場の仕事をしました。
ぶつかっても対話から逃げないこと
お父様とは意見がぶつかることはありませんでしたか。
よくぶつかります。たとえば設備投資について、それは会社を数十年後にどう発展させたいからそう判断をしたのかを問うてもその答えが出てこないと、次を担うぼくとしては不安になりますよね。父はすぐに行動しないと気が済まない性格で朝令暮改もいとわないタイプでして。
ぼくはまだ家業に入っていないのですが、例えば父は今度大がかりな食品工場に設備投資をすると言っていて、僕の考えでは今どき外注できる工場がいくらでもあるから、必ずしも大きい工場はいらないよなって思っているんです。そんな場合どう説得するんですか。
先代との接し方で心掛けていたのは、まず対話を逃げないこと。私の入社当時は代表権が父にあったので、意見の相違があっても9割は譲っていました。会社の根幹を揺るがす事案については、それまで譲った分、残りの1割自分の要求を通しました。ふだん譲っている分、逆に聞いてもらえるところはあります。
なるほど。そうした軋轢はありながらも、34歳の時には社長交代をしていますね。
もともと入社するときに、父にいつ頃社長交代を考えているか聞いたところ「3年」と言ってたんです。以来、私が自分から社長交代のことについてふれることはありませんでした。それがあるとき、毎週行っている営業ミーティングで父が突然「社長交代する」と言い出しまして。
思い付きの言葉だと周りにも迷惑がかかるので、ここはしっかり言質を取っておこうと思い、皆の前で「いつ変わるんですか」と尋ねたところ「今季限り(あと半年)だ」と。結果的にほぼその通りで社長を交代しました。当初言っていた3年ではなく、6年かかりましたが。
実質社長になれたのはこの1年のこと
社長に就任してからどんなことに取り組んでいったのでしょうか。
新規事業を2つ展開しました。一つは古紙プレスで、仕入れた古紙をプレスして資源物に変えてから古紙メーカーに販売しています。また、ホテルの清掃業も新たに始めました。それ以外ではプロバスケットボールチームのスポンサーになったり、本社社屋を新たに建てたりもしました。
社長になられてからお父様(会長)との接し方は変わりましたか。
いや、むしろますますぶつかることは増えました。妨害されることもあります(笑)。会長が作った会社なので思い入れあるでしょうし、オーナーとして君臨しているという自負もあるのでしょう。これはどうなってるんだと言われることは多々あります。父を説得することは「身内に対する仕事」とぼくは表現しています。父が作ったリソース使わせてもらっている以上避けて通れない道です。
社長就任から5年経ちますが、実質ぼくが社長になったと言えるのはこの1年くらいのことでしょうか。今はぼくが代表権を持っているわけですし、当然オーナーである会長に対してはお伺いと報告はしますが、実現できるものはするスタンスに変えています。
近いうち同じような軋轢がうちでも出てきそうです。自分の将来を見るようで勉強になります。
自分の会社なのだから思うようにやればいいんです。
本業とは別に会社を立ち上げているそうですが。
事業承継は経験しましたが、「会社を起業する」という経験がない事は経営者として少しコンプレックスでもあり、起業するチャンスがあったので思い切って起業をしました。副業のお手伝いします、というのがコンセプトで、たとえば上場企業に勤めていて副業が認められていて、本業に支障ない、もしくは本業と競合にならないビジネスをしている社員が、私の起業した会社で社員として個人事業主のようにして働ける会社です。
自分で起業した会社と、家業は違いますか。
起業はやはりゼロを一にしないといけない分、ハードルは高いですね。アトツギの会社は歴史があり、信用があり、社員もいる。だいぶ楽ですし、ありがたさを感じます。
だれもが新しいことを考えられる会社に
今力を入れていることは何でしょうか。
組織を社員が自ら考える文化に変えていくことです。会長はワンマンでやってきたところがあり、何か考えてモノを言おうものなら怒られる文化が根付いているので、社員には自発的に考える力が育ってこなかったのです。そこを変えていかないと組織は大きくならないし、そもそも誇りを持って働ける会社になれないと思っています。
どんなふうに変えていこうとしているのですか。
社員がやりたいことをやれる「誇りを持って働ける会社」、社会的認知度を高め、だれもがあの会社はしっかりした会社だなと思ってもらえる「全社員がやりがいと責任を持って働ける会社」、そしてこの会社は次に何をするんだろうと思わせる「ワクワクできる会社」の3つをビジョンに掲げています。売り上げの規模を目指すというより、このビジョンを軸に新しいことを考えられる会社にしていきたいですね。
今後の事業承継についてはどのように考えていますか。
父の思いとか家業をつないでいくという意識があるかと言うとそれはなくて、次の後継者についてもファミリーへのこだわりはありません。株式会社であり社員もいるのでこの会社は公共性の高いものだと思っています。あとを継ぐにふさわしい人間が代表になればいいし、そういう会社の作り方をしていかないといけないと思っています。
貴重なお話をどうもありがとうございました。
【千葉】
株式会社京葉エナジー https://www.keiyoenergy.co.jp/
代表取締役 岩﨑 剛士 氏
■取材した人
ズッキー
1994年生まれ。大阪で140年続く老舗鰹節屋に生まれてしまった生粋のアトツギ。専門商社退職後、東京で動画制作会社を創業。最近は本業にも徐々に関与するようになってきたため、起業家と後継者のハイブリッド型のアトツギの道を探る日々。趣味は料理。最近魚を三枚におろせるようになったことを周囲に自慢してはスルーされている。