「獺祭」を山口県から世界へ。飛躍のカギは真に“美味しい酒”であること。
旭酒造株式会社
代表取締役社長 桜井宏一 氏
山口県の小さな旭酒造という酒蔵が「獺祭」という酒を造り、東京の市場で勝負した。その美味しさは評判となり、いつしか「獺祭」はメジャーな酒の仲間入りを果たした。日本酒を飲まない人でも「獺祭」を知る人は珍しくなく、多くの人に「飲んでみたい」と思わせたという点で、日本酒業界にイノベーションを起こした企業だ。
東京市場を開拓した先代の桜井博志氏が世界へマーケットを広げる際、立役者となったのが4代目アトツギの桜井宏一代表取締役社長だ。ニューヨークからスタートし、アジア、ヨーロッパ、アメリカ全土へとそのマーケットを拡大している。
「酒蔵を継ぐ気はなかった。実家の酒へのリスペクトもなかった」という桜井社長を酒蔵へ引き戻したモノは何だったのか。ニューヨークで全く売れないという経験をした後、どうやって世界中にマーケットを拡大したのか。日本酒の海外輸出におけるトップランナー、桜井社長にお話を伺った。
出典:令和2年度中小企業庁/プッシュ型事業承継支援高度化事業/「ロールモデルのクローズアップ」事業「継ギPedia」(http://tsugipedia.com/)
酒蔵を継ぐきっかけは、実家の酒が旨かったこと
子供の頃は酒蔵の中を出たり入ったりしていたし、小さな町だから、そこが世界観のすべてでした。それが東京の大学に入ってからは、どうしてもファミリービジネスとの糸が切れてしまって。 当時の大学生が払えるような飲み放題居酒屋の日本酒なんて美味しくないし、実家から送られてくる酒もそれなりに美味しくはなってきてたのだろうけど、リスペクトはなかったですね。
部屋の隅っこに投げておいて、1カ月くらいして「飲むものないから飲む」っていう感じです(笑)。 就職活動する時も、業界研究とかすると、酒造業界はずっと右肩下がりなのはよくわかったし、ファミリービジネスに戻る感覚はなかった。それで、興味がある会社を手当たり次第に受けて、群馬県にある遊技機メーカーに入ったんです。
群馬の本社に入って1年弱経った頃、ちょうど六本木ヒルズができて、その会社もお金があったから六本木ヒルズにオフィスを構えたんですね。私もそこに通うようになったんですけど、あの辺りの飲食店は群馬の居酒屋と違って、社会人のお給料で行けるお店でもまあまあいいお酒があったんです。
いや、そこそこ安いお店もあったんです。大学時代は無理ですけど、社会人なら払えるくらい。だいたい1杯800円~900円くらいかな。そういうお店に行くようになったら、うちの「獺祭」があるわけですよ。そこで他のお酒と飲み比べてみると、どうもうちのお酒は旨い。なおかつ同じ価格帯のお酒より同じメニューにあるどの酒より旨いっていうのを感じて、これは可能性があるんじゃないかと。
なんだろうな。そこは感覚的なもので、シンプルに旨いなと感じたのが大きいと思います。お客さんもプロじゃないけど美味しいものは飲みたいでしょ。 うちの会社が伸びていることは父親からも聞いてたんですけど、業界全体は下がってきてるんだから、うちは運良く上がってるだけだろうと思ってたんです。でも、お客さん目線で飲んでみたら、「どこより美味しいから伸びてるんじゃないか」と思いました。
その時、もう一度ファミリービジネスとの糸がつながったんです。それで、「戻らせてください」って親父に頼みました。
酒蔵はまだまだ厳しい状態だったから、「東京農大行け」とか「家に戻って来いよ」とか、父は言いづらかったと思うんです。「ニューヨークに出そうと思ってるんだけど、興味ないか?」って聞かれたこともありましたけど、興味ないって言いました(笑)。 そんな感じでちょこちょこアプローチはあったけど、強くはなかったですね。父も継いだ時に祖父と方向性が合わずにケンカして一度出て行って、祖父が亡くなってから戻ってきてるんで、好きじゃないと、無理やり言って戻らせてもダメだってわかっていたんじゃないかなと思います。
「美味しい酒は海外でも売れる」という気づき
入社して半年から1年は製造の下働き。いろんな部署をまわらせてもらって仕事を覚えていきました。あと、百貨店の試飲会で店頭に立ったり。その間にハワイとサンフランシスコの展示会にも父と参加していました。 そのあと、ニューヨークにも同じような展示会があって、行く前日に「お前がニューヨーク担当者だ」って父に言われて、「初めて聞いたよ」みたいなやりとりがあって(笑)、そこからニューヨーク担当になりました。
いきなりですか?(笑)
いきなりですよ(笑)。一年の半分はニューヨークに行けと言われたんですけど、まだその時は海外で売れると思ってないから、親父は何言ってるんだろうと思いましたけど。 で、ニューヨークから、香港、イギリス、アメリカの西海岸と広げていって、結局は輸出メインで私のキャリアは伸びていった感じですね。そのままなんとなく、国内営業まで守備範囲が広がって、結果的に副社長、社長とキャリアアップしました。
海外に進出したい製造業のアトツギの方って多くて、テストマーケティング的にやってみたけど、海外と日本では感覚が違うからうまくいかないという声もよく聞くんです。そのあたりどうですか?
逆に「日本と海外では感覚が違う」というのを捨てたあたりから伸びていきました。現地の営業と同行してニューヨークのいろんな飲食店をまわるんですけど、全く売れない。当時は東北のお酒が全盛期だったんですね。うちの酒は東北でもない、値段もそこそこ高い、ボトルやラベルも普通。だから、もうボロクソですよ。
ボロクソ(笑)。
1日十数軒まわっても売れない。「東北が強いから」「名前が変わってないとダメ」「単価はこれくらいじゃないと」ってあれこれ言われて、うちの酒は海外では売れないんだって心折れちゃって……。 ただ、当時、私たちの酒を扱っているお店はすでに十何軒かあったんですね。日本にチェーン店があるところとか、個人的に「獺祭」が好きとか、山口県出身の人が店主とか。そういうお店に入りびたって、スタッフの勉強会とかイベントとか、手厚くフォローして盛り上げていくようになったのが結果的に良かった。
そう。美味しいものなら買ってもらえるし、クチコミで紹介してもらえるんですよ。父が山口から東京に出して広がった時と同じで、「獺祭」の勝ちパターン。これがアメリカでも通用しました。
「現地に合わせなくてもモノが良ければ売れる」とわかったら頭が切り替わって、「外国人も同じなんだ、外国でも売れる!」と思いました。そしたら自信持って売っていけるようになって、マーケットが広がりました。シンプルな気づき、いい体験でしたね。あの時、切り替わったことが大きいですね。
もう1つは、人の意見を聞かなかったのがよかったのかも。たとえば、カルフォルニアは乾燥しているから人の唾液が多いので、酸とか甘みのボリュームがある酒がいいとか、フランスではワインのようなお酒を造ったほうがいいとか、「獺祭」の発音って中国の南西のほうではあまりいい意味じゃない言葉と似てるから名前変えたほうがいいとか。でも、うちはうちなので何も変えなかった。それがよかったのかもしれないですね。
経験したことのない水害からの復興
不幸中の幸いだったのは、酒蔵が上に高い建物なんで、雨が製造の機器に入ってこなかったことですね。でも、排水処理の設備はパーになったし、電力も回復しない状態で、夏場だったから発酵中のお酒がダメージ受けて、いつもと同じ商品としては出せなくなりました。
うちは比較的早く復興できたんですけど、その理由の1つにうちの会社のスタイルがありました。一般的には同じメンバーで洗米して、蒸して、麹造って、発酵してって一緒にやる酒蔵が多いんですけど、うちは分業制。洗米は洗米、麹は麹、みたいに、製造工程ごとに部署が分かれてるんです。それが良かったんですよ。部署ごとに「洗米チームはここの泥かき出して」「麹チームはここを高圧洗浄機で掃除して」みたいに、指示命令系統がいつもと同じように機能したので。 だから私がやったのは、明るい顔してみんなと一緒に泥かき。ニコニコ明るい顔しないといけなかったのはメディア用。落ち込んで呆然としてる社長を撮りたくて、いっぱい取材が来るんで(笑)。
そうしている間に、課題が出てきた。初期段階では被害状況の把握。商品が2カ月近く止まるから、在庫が多少あったのをどう振り分けるか。タンクのお酒が品質基準に満たなかったのをどう販売していくか。被災者復興支援企画で「獺祭 島耕作」っていう商品ができたんですけど、あれは社会に対してインパクトはあったと思います。
もう1つ感じたのは、先代は「トラブルに対する引き出し」が大きいということ。昔は泥臭いトラブルもあって、社員同士がケンカしたとか、製造で考えもつかないようなミスしてどうやってリカバーするんだ、みたいな経験をしてたのは強い。 この水害も結果的には組織の財産になったんです。タンク150本分のお酒がダメになったんですが、これを全部リカバーするための試行錯誤をしたってことは、すごい経験になりましたね。
海外マーケットの可能性をさらに追求していく
私の父が会社を継いで、山口だけじゃやっていけなくて東京に行って、「獺祭」が出来上がった。私が継いでからはマーケットを世界に広げて、おかげさまで今年、日本酒の全輸出額の2割強がうちになりそうです。
まだまだ進んで行くんじゃないかと思いますよ。10年後はもしかしたら、外国人がうちの製造責任者でお酒造ってるかもしれない。アメリカでやっている酒蔵でアメリカ人が育って、逆に日本に引っ張られることもあると思う。海外と日本で売上は逆転するんじゃないかとも思いますし。それが10年後のイメージですね。
輸出のトップランナーだからわかるんですけど、海外では日本酒は全然売れていないんですよ。確かフランスのワイン輸出が1兆円、日本酒が200億円くらい。まだまだ可能性があるし、海外マーケットを大きくしていくのが私の役割ですね。 それと、商売として酒を売っていくだけでなく、根っことしての想いを大事にしたい。「獺祭」って美味しいお酒で飲んだ人を幸せにする、社会を楽しく華やかにする、より良い方向にちょっとずつでも社会やお客様の人生が向かうお手伝いをする、というのが変わらない部分なんです。状況やアプローチは変わったとしても、そこの最終的な部分は変わらないと思っています。
【山口県】
旭酒造株式会社 http://www.asahishuzo.ne.jp/
代表取締役社長 桜井宏一 氏
■取材した人
ティム/マスオ型アトツギ
コテコテの理系男子の元ITエンジニアから結婚を機に土建屋アトツギへ華麗なる転身。この選択は正解だったのか...俺たちの戦いはこれからだ!!!