最後の1人になっても会社を続ける覚悟はあるか
株式会社 ビー・アンド・プラス
代表取締役社長 亀田 篤志 氏
ワイヤレス給電は、スマートフォンなどの小型のモバイル機器の充電に使われており、私たちにとっても身近な技術だ。このワイヤレス給電市場において工場向けでトップシェアを持つのがビー・アンド・プラスだ。
亀田篤志社長は、創業者である父、そして社員から昇格した2代目の社長のあとを受け、2015年に社長に就任した。「ワイヤレス給電で世界一になる」というスローガンを掲げ、あらゆる分野でワイヤレス給電の可能性を広げていこうとしている。
入社してからは会社の不平不満分子ともみられていた亀田社長。社長就任後にバタバタと社員が辞め、「ナンバーワン」のスローガンを冷ややかに見る社員も多かった中で、どのように状況を切り開いていったのか。「アトツギは決してヒーローじゃない」。そう話す亀田社長に事業承継の経緯と会社を引き継いでいく思いを聞いた。
出典:令和2年度中小企業庁/プッシュ型事業承継支援高度化事業/「ロールモデルのクローズアップ」事業「継ギPedia」(http://tsugipedia.com/)
「ナンバーワン」であるという気概こそが大事
1980年に父が創業した会社で、ドイツから工業用センサーを輸入して販売する商社としてスタートしました。翌81年からは日本でセンサーを製造してドイツのブランドとして売るようになりました。ワイヤレス給電については、84年にお客さんから工場用のワイヤレス給電が欲しいと言われてつくり始めたのがきっかけです。そこからひたすらワイヤレス給電をやってきました。工場向けのワイヤレス給電ではうちが一番作っていると思います。
皆さん分かりやすいところでは、携帯電話だけだと思いますが、そこは大手も入ってきてコスト競争では勝てないので、マーケットを絞らずワイヤレス給電のニーズに対して何でもやりますということを発信していきました。
看板は一度汚したってまたきれいにすればいい
だれがどう定義するかでナンバーワンって変わるものなので、だれでも名乗ろうと思えば名乗れるものです。それよりもナンバーワンというプライドを持って活動することこそが大事だと思っています。
この会社に入る前に勤めていたデンソーという会社はトヨタ系の会社なんですけど、技術力はナンバーワンという自負を持っていて、トヨタとでさえ自分たちは対等に話せるんだというプライドを持っていました。そのような誇りやポジションですべての行動が変わっていくものだと思っています。
入社3年目の頃、アメリカに赴任しました。現地の日系企業に営業するのは面白くないなと思って、あえて現地の企業に飛び込んでいったんです。電話をかけて向こうが出るとまず「ワイヤレス給電ナンバーワン」と言いました。ポカンとされましたけど(笑)。
らちが明かなかったのでシリコンバレーに直接乗り込んでいって、「日本のワイヤレス給電ナンバーワンの会社です」と会社の受付で伝えるんです。断られたらその辺でタバコ吸っている人に話しかけたりしてなんとかきっかけを作っていきました。
大企業の看板しょってるとできないようなことでも中小企業ならできる。看板は一度汚したってまたきれいにすればいいんです。
自分たちの世代が責任を持って会社を大きくしていく
僕の会社も140年続いているので看板に泥を塗っちゃいけないみたいな意識がどうしても働いてしまうんですけどそこは気にせずやったほうがいいのかもしれませんね。
そもそも亀田さんは会社を継ごうと思っていたのですか。
▲学生時代の友人と(写真左)
飛ばされたんです(笑)。父の後を継いで社長になられていた方と事業に対する考え方の相違でけんかをしてしまいまして。ぼくは、先代社長とだけでなく会長だった父ともよくケンカをしていました。社長は父の後にメーカーとしての基盤を作った功労者で、父もその社長のことを信頼していました。僕は文句ばかり言う不平不満分子みたいな見られ方をしていたと思います。
ただアメリカへ行ったものの、ビザの延長申請が非常に難しくて結局1年で戻ってきたんです。それはそれで「何の努力もしないで帰ってきて」みたいに父からも社長からも言われまして。
ぼくがそんな風だから、当時の社長は、会社を存続させるためには売るしかないと思っていたようです。ぼくはその話を聞いて、売ってしまった後に従業員の雇用が守られるのか不安になったんです。だから売却は絶対にしてほしくないと思った。それで、当時若い役員の方がおられたので、「私たちの世代で責任を持ってこの会社を大きくします」という思いを伝えました。その人が社長になってもいいと思っていましたし。
最後は株主である父に判断が委ねられました。父は、失敗しても責任が担える世代に引き継いでほしいという思いだったので、最後にはぼくにあとを委ねることを決めてくれました。今思うと父も当時の社長も、後継者になるかもしれない僕にあえて試練を与えようとしていたのかもしれません。
新チームを支えてくれたのは2人のベテラン社員
残念な気持ちはありますが、不安は感じませんでした。それぞれ自分の人生の選択肢を持っているんです。僕だってデンソー辞めたわけですから。それよりも、会社のために残って働いてくれている人をファミリーとしてしっかり守りきるということです。
社長を継いだ時に父から言われた言葉がありまして。「自分が最後の1人になっても会社を続ける覚悟があるなら社長をやりなさい」と。その覚悟を決めたら、社員が辞めていくことはあくまでも通過点でしかないなと思えるようになりました。
どうしていこうかと考えているときに、60歳を越えたベテランの営業の方が「やるんだったら、独立部署つくってやったほうがいい」という貴重なアドバイスをくださったんです。
さらにベテランの技術者の方も一緒にやろう、と。その3人で新しいマーケットを開拓していくチームを作りました。
さらに大阪、名古屋の営業担当者も加えて計7人にまで増やしました。従来の営業担当者はごそっと減ったのですが、その代わり新たなチームでこれまでにない先を開拓していった結果、全体の営業訪問数は従来の1.5倍にまで増えました。結果的にやり方を変えるいいチャンスになったのです。
だれよりも会社を守れる理由とチャンスを持っている、それがアトツギ
アトツギの中には事業を継いでから会社がどうなるんだろうか、新しい事業のアイデアが見つかるだろうかという不安や焦りを抱えている人も多くいます。亀田さんはいかかでしたか。
ぼくの場合は、受け継いだ会社を大きくしていくのが楽しいというだけです。そもそもアトツギってそんなにすごい人たちじゃないでしょ(笑)?
親は確かにすごいけれど、アトツギはたまたまその親のもとに生まれただけ。こんなダメな男でもアトツギだからチャンスをもらえた。それってすごいことです。アトツギはハングリーな起業家には勝てないかもしれないけど、起業家に負けないものもある。アトツギには会社を守っていくという理由を誰よりも持っていることなんです。あとはアトツギがそれをどう受け止められるかだけなんです。
だから別に新しいことをやる必要はないし、鈴木さんのように会社を継ごうとしてつないでいくだけですごいことなんです。140年続いてきた鰹節の味をたとえ鈴木さんが1人になったとして残すことが重要なんです。変えること、かっこいいことばかりにフォーカスしてしまうとアトツギのハードルが上がってしまってそうあらねばというプレッシャーになってしまう。それは決して良いことではないと思ってるんですよね。
【埼玉】
株式会社 ビー・アンド・プラス https://www.b-plus-kk.jp/
代表取締役社長 亀田 篤志 氏
■取材した人
ズッキー
1994年生まれ。大阪で140年続く老舗鰹節屋に生まれてしまった生粋のアトツギ。専門商社退職後、東京で動画制作会社を創業。最近は本業にも徐々に関与するようになってきたため、起業家と後継者のハイブリッド型のアトツギの道を探る日々。趣味は料理。最近魚を三枚におろせるようになったことを周囲に自慢してはスルーされている。