最後の1人になっても会社を続ける覚悟はあるか

株式会社 ビー・アンド・プラス
代表取締役社長 亀田 篤志 氏

ワイヤレス給電は、スマートフォンなどの小型のモバイル機器の充電に使われており、私たちにとっても身近な技術だ。このワイヤレス給電市場において工場向けでトップシェアを持つのがビー・アンド・プラスだ。

亀田篤志社長は、創業者である父、そして社員から昇格した2代目の社長のあとを受け、2015年に社長に就任した。「ワイヤレス給電で世界一になる」というスローガンを掲げ、あらゆる分野でワイヤレス給電の可能性を広げていこうとしている。

入社してからは会社の不平不満分子ともみられていた亀田社長。社長就任後にバタバタと社員が辞め、「ナンバーワン」のスローガンを冷ややかに見る社員も多かった中で、どのように状況を切り開いていったのか。「アトツギは決してヒーローじゃない」。そう話す亀田社長に事業承継の経緯と会社を引き継いでいく思いを聞いた。

出典:令和2年度中小企業庁/プッシュ型事業承継支援高度化事業/「ロールモデルのクローズアップ」事業「継ギPedia」(http://tsugipedia.com/)

 

 

 

「ナンバーワン」であるという気概こそが大事

ズッキー
ズッキー
ぼくも140年続く鰹節メーカーのアトツギで26歳です。まだ経営は引き継いでいませんが、事業承継にあたってさまざまな不安を抱えているので、亀田さんの話を今後に生かしていきたいと思っています。よろしくお願いします。まずは事業の概要と、社長に就任されてからの取り組みについて教えてください。

1980年に父が創業した会社で、ドイツから工業用センサーを輸入して販売する商社としてスタートしました。翌81年からは日本でセンサーを製造してドイツのブランドとして売るようになりました。ワイヤレス給電については、84年にお客さんから工場用のワイヤレス給電が欲しいと言われてつくり始めたのがきっかけです。そこからひたすらワイヤレス給電をやってきました。工場向けのワイヤレス給電ではうちが一番作っていると思います。

亀田氏
亀田氏

2015年に社長を引き継いだ時、ワイヤレス給電には無限の可能性があると感じていたので工場用に限らずすべてのマーケットに対して供給していこうと決め、「ワイヤレス給電で世界一になる」という目標を掲げました。

 

皆さん分かりやすいところでは、携帯電話だけだと思いますが、そこは大手も入ってきてコスト競争では勝てないので、マーケットを絞らずワイヤレス給電のニーズに対して何でもやりますということを発信していきました。

亀田氏
亀田氏

 

 

 

看板は一度汚したってたきれいにすればいい

ズッキー
ズッキー
「ナンバーワン」っていう表現をされてますよね。

だれがどう定義するかでナンバーワンって変わるものなので、だれでも名乗ろうと思えば名乗れるものです。それよりもナンバーワンというプライドを持って活動することこそが大事だと思っています。

 

この会社に入る前に勤めていたデンソーという会社はトヨタ系の会社なんですけど、技術力はナンバーワンという自負を持っていて、トヨタとでさえ自分たちは対等に話せるんだというプライドを持っていました。そのような誇りやポジションですべての行動が変わっていくものだと思っています。

亀田氏
亀田氏

ズッキー
ズッキー
前職での経験からの学びなんですね。それを家業に持ち帰ったってことですか?

入社3年目の頃、アメリカに赴任しました。現地の日系企業に営業するのは面白くないなと思って、あえて現地の企業に飛び込んでいったんです。電話をかけて向こうが出るとまず「ワイヤレス給電ナンバーワン」と言いました。ポカンとされましたけど(笑)。

 

らちが明かなかったのでシリコンバレーに直接乗り込んでいって、「日本のワイヤレス給電ナンバーワンの会社です」と会社の受付で伝えるんです。断られたらその辺でタバコ吸っている人に話しかけたりしてなんとかきっかけを作っていきました。

亀田氏
亀田氏

そのうちの1人が、Intuitive surgicalっていう超デカい会社の人で、話しているうちに「2週間後に来い。何人か集めておくから」となって。実際に行ってみたら何十人もの人が会議室に来ててプレゼンしました(笑)。

 

大企業の看板しょってるとできないようなことでも中小企業ならできる。看板は一度汚したってまたきれいにすればいいんです。

亀田氏
亀田氏

 

 

 

自分たちの世代が責任を持って会社を大きくしていく

ズッキー
ズッキー

僕の会社も140年続いているので看板に泥を塗っちゃいけないみたいな意識がどうしても働いてしまうんですけどそこは気にせずやったほうがいいのかもしれませんね。

 

そもそも亀田さんは会社を継ごうと思っていたのですか。

継ぐことは意識していなかったんです。それよりも起業して従業員まで雇っている父の背中を見てすごいなと感じていて、それを超えるには自分で起業するしかないなと思っていました。大学時代には学生向けのフリーペーパーを自分で立ち上げて、大学の周りの飲食店に広告料くださいって回ってました。大変だったんですけど自分で汗かいてゼロから立ち上げてお金得ることの大変さと面白さを知って、なおさら起業したいという気持ちが募りました。
亀田氏
亀田氏

▲学生時代の友人と(写真左)

デンソーも起業するときのマネジメントを学ぶことができればと考えて選んだ先です。ただ、大企業の看板の下で働いていることに限界を感じていました。そんなときに父から、会社が世代交代の時期に入っていることをふまえて「来る意思はあるのか」と聞かれたことがありまして。起業したいという思いを突き詰めると、夢のある会社を作りたいということだったので、それはワイヤレス給電でこの会社を大きくすることも同じことだなと。それでまずはこの会社で結果を出してみようと思い、継ぐことにしました。
亀田氏
亀田氏

ズッキー
ズッキー
入社してからはどんな部署を担当したのでしょうか。
はじめ製造に1年ほど勤務した後、製品企画を1、2年経験してアメリカへ行きました。
亀田氏
亀田氏
ズッキー
ズッキー
なぜまたアメリカに。

飛ばされたんです(笑)。父の後を継いで社長になられていた方と事業に対する考え方の相違でけんかをしてしまいまして。ぼくは、先代社長とだけでなく会長だった父ともよくケンカをしていました。社長は父の後にメーカーとしての基盤を作った功労者で、父もその社長のことを信頼していました。僕は文句ばかり言う不平不満分子みたいな見られ方をしていたと思います。

 

ただアメリカへ行ったものの、ビザの延長申請が非常に難しくて結局1年で戻ってきたんです。それはそれで「何の努力もしないで帰ってきて」みたいに父からも社長からも言われまして。

亀田氏
亀田氏

ズッキー
ズッキー
なんとなく、バツが悪い感じですよね。。。

ぼくがそんな風だから、当時の社長は、会社を存続させるためには売るしかないと思っていたようです。ぼくはその話を聞いて、売ってしまった後に従業員の雇用が守られるのか不安になったんです。だから売却は絶対にしてほしくないと思った。それで、当時若い役員の方がおられたので、「私たちの世代で責任を持ってこの会社を大きくします」という思いを伝えました。その人が社長になってもいいと思っていましたし。

 

最後は株主である父に判断が委ねられました。父は、失敗しても責任が担える世代に引き継いでほしいという思いだったので、最後にはぼくにあとを委ねることを決めてくれました。今思うと父も当時の社長も、後継者になるかもしれない僕にあえて試練を与えようとしていたのかもしれません。

亀田氏
亀田氏
ズッキー
ズッキー
従業員を守るという意識はどこで芽生えたものなんですか。
ちょうど入社したときがリーマン・ショックのタイミングで、当時の会社の判断で、派遣の人に何人も辞めてもらうことになりまして。製造部門についてはぼくがそのことを伝える立場で、会社のために働いてこられた方たちなのに、後から入った僕がそれを伝えるのがすごく申し訳なくて。だから「社長になったら従業員のことは絶対守る」と心に決めました。
亀田氏
亀田氏

 

 

 

新チームを支えてくれたのは2人のベテラン社員

ズッキー
ズッキー
社長に就任されて「ワイヤレス給電で世界一を目指す」と言うスローガンを掲げたわけですね。社内の反応はいかがでしたか。
僕が社長に就任したとたん東京営業所にいた5人の営業担当者のうち4人が辞めてしまいまして。社内はシラーっとしてたというかあまり関心がないという感じでした。
亀田氏
亀田氏
ズッキー
ズッキー
従業員が辞めていったことに不安を感じませんでしたか。

残念な気持ちはありますが、不安は感じませんでした。それぞれ自分の人生の選択肢を持っているんです。僕だってデンソー辞めたわけですから。それよりも、会社のために残って働いてくれている人をファミリーとしてしっかり守りきるということです。

 

社長を継いだ時に父から言われた言葉がありまして。「自分が最後の1人になっても会社を続ける覚悟があるなら社長をやりなさい」と。その覚悟を決めたら、社員が辞めていくことはあくまでも通過点でしかないなと思えるようになりました。

亀田氏
亀田氏

ズッキー
ズッキー
「ワイヤレス給電で世界一を目指す」って決めたとして、ぼくなら何から始めようか迷うと思うんです。

どうしていこうかと考えているときに、60歳を越えたベテランの営業の方が「やるんだったら、独立部署つくってやったほうがいい」という貴重なアドバイスをくださったんです。

さらにベテランの技術者の方も一緒にやろう、と。その3人で新しいマーケットを開拓していくチームを作りました。

 

さらに大阪、名古屋の営業担当者も加えて計7人にまで増やしました。従来の営業担当者はごそっと減ったのですが、その代わり新たなチームでこれまでにない先を開拓していった結果、全体の営業訪問数は従来の1.5倍にまで増えました。結果的にやり方を変えるいいチャンスになったのです。

亀田氏
亀田氏
ズッキー
ズッキー
アトツギあるあるでは大体、ベテラン社員を敵に回してしまうってよく聞きます。若手ではなく、ベテラン社員の方が亀田さんについてくださったというのは意外です。
その2人は、創業時から父と苦楽をともにしてきた社員で、ぼくがやろうとしていることを前向きに支えようとしてくれたんだと思います。それは、社員が会社を愛して働く土台をつくった父と、それを引き継いだ2代目社長が築いた価値観であり、それが私に力をくれたのだと感謝しています。
亀田氏
亀田氏
ズッキー
ズッキー
チームではどのように仕事を進めていったのでしょうか。
お客様から依頼のあった製品の開発をとにかくスピーディーにやっていきました。いわゆるリーン・スタートアップです。まずはプロトタイプを速ければ2週間くらいでつくって、それに対してお客様とキャッチボールをし、改良しながら開発を進めていきました。新しい案件が増えていき、ちょうど売り上げが上がっていくタイミングとも重なり、社員の意識が変わっていきました。
亀田氏
亀田氏

 

 

 

だれよりも会社を守れる理由とチャンスを持っている、それがアトツギ

ズッキー
ズッキー

アトツギの中には事業を継いでから会社がどうなるんだろうか、新しい事業のアイデアが見つかるだろうかという不安や焦りを抱えている人も多くいます。亀田さんはいかかでしたか。

ぼくの場合は、受け継いだ会社を大きくしていくのが楽しいというだけです。そもそもアトツギってそんなにすごい人たちじゃないでしょ(笑)?

 

親は確かにすごいけれど、アトツギはたまたまその親のもとに生まれただけ。こんなダメな男でもアトツギだからチャンスをもらえた。それってすごいことです。アトツギはハングリーな起業家には勝てないかもしれないけど、起業家に負けないものもある。アトツギには会社を守っていくという理由を誰よりも持っていることなんです。あとはアトツギがそれをどう受け止められるかだけなんです。

 

だから別に新しいことをやる必要はないし、鈴木さんのように会社を継ごうとしてつないでいくだけですごいことなんです。140年続いてきた鰹節の味をたとえ鈴木さんが1人になったとして残すことが重要なんです。変えること、かっこいいことばかりにフォーカスしてしまうとアトツギのハードルが上がってしまってそうあらねばというプレッシャーになってしまう。それは決して良いことではないと思ってるんですよね。

亀田氏
亀田氏
ズッキー
ズッキー
変えるか、変えないかは別にしてまずは継ぐ覚悟、そしてつないでいくという気持ちが大事だということがわかり、気落ちに余裕をもつことができました。ありがとうございました。

 


【埼玉】

株式会社 ビー・アンド・プラス https://www.b-plus-kk.jp/

代表取締役社長 亀田 篤志 氏


 

■取材した人

ズッキー

1994年生まれ。大阪で140年続く老舗鰹節屋に生まれてしまった生粋のアトツギ。専門商社退職後、東京で動画制作会社を創業。最近は本業にも徐々に関与するようになってきたため、起業家と後継者のハイブリッド型のアトツギの道を探る日々。趣味は料理。最近魚を三枚におろせるようになったことを周囲に自慢してはスルーされている。

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