前職で学んだチームづくりを家業で実践/米国での気づき、タウン情報サイトを立ち上げ
亀田産業株式会社 代表取締役社長
亀田寛 氏
https://www.kamedasangyo.co.jp/
1976年生まれ。大学卒業後、現KDDI株式会社に就職。名古屋、東京などで16年間勤め、2015年Uターンを決意し、亀田産業に入社。2016年に専務取締役、2019年に代表取締役に就任した。同社は1968年、祖父實氏が設立。現在は航空機に使用されるハニカムコア加工事業に加え、家具やワインの販売も行っている。
ヤマゼンコミュニケイションズ株式会社
代表取締役社長 山本 堅嗣宣 氏
https://www.yamazen-net.co.jp/
1974年生まれ。大学卒業後、米国の製版会社に3年間勤務。2000年、現ヤマゼンコミュニケイションズに入社し、「栃ナビ!」を創設した。2016年に父征一郎氏の後を継ぎ、社長に就任。同社は1950年、活版印刷を中心とする山善社印刷所として宇都宮市に設立。
毎回違うテーマで、新規事業開発の裏側やアトツギリアルあるあるに迫るオンライントークイベント「アトツギベンチャーMeet-UP!Vol.2 in TOCHIGI」が11月12日に開かれた。5回シリーズの2回目となる今回のテーマは「−アトツギのキャリア− 隣接業界と他業界」。隣接業界や他業界から家業に戻った先輩アトツギが前職で何を学び、新規事業にどう生かしたのかをつぶさに語ってもらった。
【主催】関東経済産業局
【共催】栃木県
【運営】一般社団法人ベンチャー型事業承継
【協力】野村證券株式会社、大同生命保険株式会社
大企業を辞めて家業を継いだ理由
ぼくは大手自動車部品メーカーで5年、HRテックベンチャーで4年働いた後、20年1月に家業に戻ってきたばかりの32歳、いわゆる若いアトツギ代表です。私が気になる点を先輩アトツギのお二方に率直にお話を伺っていきたいと思います。
他業界から家業に戻られた亀田さんから、ご自身のご紹介をお願いします。
私は16年かかっていますから(笑)。
KDDIに勤めていた2014年に、実家から社外取締役になってほしいという話が来まして。KDDIに事情を話したら報酬をもらわなければ問題ないとのことで受けました。そこで取締役会に出て初めて、家具屋以外に航空部品も作っていることを知りました。
当時父もすでに60代後半になっていて、後継者がいないと取引先に迷惑をかけることになるなと思い始めました。翌年に息子が小学校に入るタイミングだったので転校させるのもかわいそうだなと思い、宇都宮に戻ることにしました。
自分のやりたいことをやれるってことですかね。大きい会社は自分のやりたいことをやろうとしても会社の方針はこうだからと言われればそれに従わないといけないし、はんこ決裁が下りないと他の部署にも話しもできませんから。
いざ入社、社員から「誰この人?」
事務所に入った時にまず雰囲気が暗いなあ、と思いました。ぼくは、いつも明るく楽しくしているのが好きなんですけど、だれこの人?みたいな感じがあって。父も事前に説明してなかったみたいです(笑)。
それとパソコンもなければ、社員一人ひとりにメールアドレスも割り当てられていませんでした。前の会社はもちろん1人1台パソコン、携帯も持っていて、なにかあればメールで周知し、リアルタイムで事が進んでいく環境だったので。
結局、社内で情報共有がなされていなかったんです。経営は経営、現場は現場、航空機部品と家具部門もばらばらで動いていました。
全社員を集めた朝礼を実施して、ぼくがニュースで話題になっていることなどを毎週しゃべるようにしました。目の前のことだけをやっていればよいのではなく、世の中で起きていることについて考えるようになれば考える習慣がつきます。まずはそこから始めました。
毎月1回発行している社内報には、先月の生産個数実績や今後の見通しなどのデータやお客様からの評価、今月のスケジュールや目標などを入れるようにしました。現場にも経営陣や管理職が持っている情報を共有することでどうすれば仕事の山谷を平準化できるか、残業を減らせるかなどを考えてもらうようにしました。
印刷業界ってそもそもも装置産業で、機械をどれだけ回してお金を稼ぐかというビジネスモデルなんです。これを変えていきたいという思いがありました。
せっかく米国でネットビジネスの台頭を肌で感じていたので、ネットを使って何かやりたいなあと考えていて。まず自分で困っていることって何だろうって頭を巡らせたら、ああ、ご飯食べに行くところっていつも決まっているな、と。
誰かに背中を押してもらったら新しいお店に行くのになあと思って。人ってお互いに喜びを伝え合いたいと思うものだから、それを利用して新しい口コミ体験をネットで展開できるんじゃないかって考えて生まれたのが「栃ナビ」です。
父も新しいことは好きで、印刷業をしながらデザインのチームを作ってたくらいですから、「よくわかんないけどいいんじゃない」みたいな感じで。
ただ、そこからが暗黒時代でした。
新規事業始めるも、暗黒時代到来
「栃ナビ」のチームを作るのに各部署から優秀な社員をピックアップしたんです。いきなり入ってきた社長の息子がわけわかんないこと始めて、出来のいい部下まで引っこ抜かれたら面白くないですよね。
毎月経費ばかり出ていくし。何やってんだ、みたいな冷ややかな目で見られてました。社員も辞めていっちゃうし。事業が軌道に乗るまでの5年間はきつかったですね。それでも、おれたちは「栃木のヤフーになろう」っていうビッグスローガンを打ち立ててまとめていきました。
結局は「人」、社員のやりたいことを応援する
前職ではもちろんビジネスのノウハウも学んだんですけど、結局は人だなっていうのが一番の学びでした。
KDDIって今や連結4万人以上の社員がいる会社で、しかもいろんな会社出身の人が混ざってるんです。性格も考え方もみんな違うんだけど、そういう人たちといかにチームになって仕事を進めていくかっていうのが大事だなって気づきました。
だから戻ってきてからは、一人ひとりの社員の得意分野をちゃんと見て、この社員にはどんな仕事を任せたらいいのかっていうことを考えています。
半年に1回、約30人のパート含む従業員と一人30分ずつ時間を取って個人面談をしています。なんでも言ってねと打ち解けた感じでやってます。当方が入社する以前は社長と1対1で話すことなどなかったようですね。ミーティングなど複数人がいるところでは意見を言わない従業員でも、マンツーでちゃんと話を聞けば思いを吐き出してくれるし、始めた最初の頃は「この会社ここが変だよ」というクレームも多かったのですが、その変な所を改善するとともに段々クレームもなくなってきましたよ。
面談の場は、もちろん社員からの思いを聞く場でもあるんですけど、僕の考えていることも伝えていて、社員にぼくのやろうとしてることを認めてほしいっていうのもあるかな。お互い気持ちよく働きたいじゃないですか。
それでいうとうちは70人の社員に毎日日報を書いてもらってます。それに毎日目を通しながら、社員がやってみたいと思うことと、自分の経験を融合せながら、こうしたら面白くなるんじゃないかっていうのを投げかけています。
これからは自分のやりたことばかりではなく、社員のやりたいことを応援して、社員を伸ばしていきたいなって思っています。
死ぬときにどういう自分でありたいかを想像してみる
ものづくりの会社の場合、最初に現場に入ったほうがいいって言いますよね。僕もそう思っていました。
ただ、僕は入社して航空機部品の取引先に半年研修に行かせてもらいまして。だから、社長(父)も現場はもう経験しなくていい、マネジメントはマネジメントでいいんだと。そう言われて、現場には結局入りませんでした。
むしろそれで現場との役割分担がしっかりできたかもしれません。ぼくは現場作業はできないからこそ、現場のことはできる皆さんに任せたから報告だけはしてくれ、と。お取引先様の窓口になっていたり、お客様にかかわる事項の決裁をするのはぼくだから良い情報も悪い情報も常にリアルな情報だけはちょうだいねと。
家業に戻って20年が経ち、最近思うのは覚悟を決めることの大事さです。家業に戻るのも、そこにこだわらず新しいことをやるのも覚悟が必要です。覚悟を決められないと中途半端な気持ちのまま生きてしまうことになります。
覚悟を決めてからも、目の前のことに追われ大変なことが続くと思いますが、しんどいなと思ったときは、死ぬときにどういう自分でありたいかを想像してみてください。そこから逆算して考えると、今大変なこともそのときのために必要なことなんだと前向きな気持ちになれます。苦しいことがあれば、ぜひそんなことを考えて乗り越えていってほしいと思います。
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■取材した人
セキネシール工業株式会社 関根俊直 氏
1988年埼玉県生まれ。ユネスコ無形文化遺産にも登録された「細川和紙」の技術を活かした特殊機能紙を生産・販売する、セキネシール工業株式会社の3代目候補。大手自動車部品メーカーにて生産管理、HR Techベンチャーにて営業、人事の仕事を経験した後に、2020年より家業へアトツギとして入社。入社後は、営業・人事・IT推進の仕事を担い、家業の価値ある伝統や技術を活かして、新たな企業への転換を目指し奮闘中。