アトツギ=自分の人生を主体的に生きること/自分を磨こう!どんどん失敗しよう!
株式会社サンワカンパニー
代表取締役社長 山根太郎 氏
関西学院大学卒業後、伊藤忠商事株式会社の繊維部門に入社。2014年、住宅設備機器・建築資材のインターネット販売を営むサンワカンパニーの創業者である父の死去に伴い社長に就任(就任当時は東証マザーズ最年少社長)。
異業種出身の経験を⽣かし、住宅設備機器では珍しいインターネット通販を推進。「くらしを楽しく、美しく。」という経営理念を掲げ、「独自のビジネスモデル」「世界から認められるデザイン」をもとに10年以上右肩上がりで成長。
業界の枠に囚われない積極的な事業を展開する傍らで、HEAD契約テニスプレーヤーというアスリートの顔も持つ。
著書に『アトツギが⽇本を救う―事業承継は最高のベンチャーだ―』(幻冬舎 2018)がある。
株式会社Kitamura Japan
代表取締役 北村 圭介 氏
1979年名古屋市生まれ。大学在学中、アメリカへ留学。卒業後、家業である1923年創業の枕専門メーカーに入社し、開発と営業職を経て、2009年、4代目代表取締役に就任。 【元気な、「おはよう」を創る!】を経営理念に、世界の市場へ快眠を届け続けるため、寝具の企画 ・製造 ・販売を一貫して行い、「まくらのキタムラ」のブランディングを担う。 また、2017年より日本のものづくりを応援する団体、NPOメイド・イン・ジャパン・プロジェクトの代表理事を務めている。
2020年9月26日に開催された『Nagoya Atotsugi Venture Project』のキックオフミーティング初回、テーマは「リアルにいろいろ事情があるアトツギが家業でやりたいビジネスをホントに始められるのか」。
ゲストスピーカーに株式会社サンワカンパニーの山根太郎代表取締役社長と株式会社Kitamura Japanの北村圭介代表取締役を迎え、一般社団法人ベンチャー型事業承継の山野千枝代表理事が司会進行を担当。「アトツギにしか話せないココだけのハナシ」が次々に飛び出し、会場は大いに沸いた。
【主催】名古屋市経済局産業労働部中小企業振興課
「やっぱり継いでほしい」、病床の父からの電話
27歳です。僕が生まれる3年前。ワンルームマンションに父と母と僕とで住んでいて、お金がなかったんで、テレビの砂嵐の明かりで生活してたらしい。アトツギの中でも珍しくゴリゴリいくタイプなのは、たぶん父親から事あるごとに、昔の貧乏話を聞いてたからでしょうね。
その後、父の事業が軌道に乗って、高級住宅街に引っ越したんです。そしたら家庭訪問で、担任、教頭を含め先生が4人も!来たんですよ。家中をなめ回すように見て帰って。
その翌日から教師によるイジメが始まりました。「アンタ、塾行ってるのにこんなんも分からへんの?」とか。その時に、「成功した人を妬むような人間にはならない!成功している人を見て『すごい。自分もああなりたい」と素直に思える人間になりたい!』と思いましたね。
夢破れ、目的もなくアトツギに
創業は1923年。ひいおじいさんが創業して、当初は綿布商。おじいさんの代で布団カバーとかをやり始め、父の代でメーカーの高機能枕を扱うようになりました。自分は4代目です。
かつては100%下請け。今はほぼ自社ブランド、ないしは、ODMで我々がデザインしたものをメーカーブランドで販売しています。兄が2人いるんですけど、それぞれ別の仕事をしているので私に回ってきた、というか。
体育の先生をめざして、大学は体育学部へ。だけど、マッチョな人たちの集まりで、面食らってしまいました(笑)。そんなとき、高校の同級生が1年間アメリカに留学して帰ってきました。前はそんなイケてる感じではなかったのに、イイ感じに仕上がってた(笑)。それで「俺も行くわ!」となって、アメリカに行きました。
留学はすごく楽しくて、視点が変わりました。1997年頃、インターネットが簡単に使えるようになってきた時期で、日本といい意味で距離を取りながら過ごせました。三男ということもあり、自分の意見を積極的に言わず控えめでいることに慣れてたんですが、向こうの人は意見を求めてくる。拙い英語で自分の意見を言えるようになってました。
結局、教師の道は断念し、就職活動をせずに、卒業間際の2月に「家で働かせてもらいたい」と父に言いました。そんな感じで目的もなく入ったし、大学を出たばかりで、仕事といえば出張することだと思っていたから(笑)、新幹線に乗っていろんな地方に行って仕事をやっている気になっていました。
でも業績は下降気味。後から聞くと、父は息子に入社されると困る状況だったらしい。会社は畳むつもりでいたらしいんです。ところが私が「入る」と言ったもんで、「しょうがねぇから続けるか」という感じだったみたいです。
ずっとメーカーさんから仕事をもらっていましたから、自分たちではどうすることもできない。販路を見つけようと、新規事業もやりましたが、うまくいかない。業績がどんどん悪くなり、家族関係も悪くなっていきました。
当時、自分は27、28歳。若かったから「自分がなんとか借金を返す!」という思いでした。資産をいろいろ売却してすっきりして、30歳で代表になりました。心機一転、英語表記の現社名に変えて、海外市場をめざすことにしました。
会社は亡き父のアイデンティティ
父は2012年8月31日に亡くなりました。僕の息子は妊娠6ヵ月。親父には孫の顔を見せてやれなかった。息子から「おじいちゃんってどんな人やった?」とよく聞かれるんですけど、「この会社つくった人や」と、今なら言えるんです。
父が亡くなる3日前、「会社を継いでくれへんか?」と言われたとき、妻にも相談せず決断しました。いつか息子に「おじいちゃんがこの会社をつくったんや」と言いたくって。でも「大きくしたのはパパやけどな」とも言うつもりですけど(笑)。
今の会社って父親のアイデンティティみたいなところがあって、彼に会ったことがない家族に見せてやりたいと思ったのが、原体験ですね。
既存事業と新規事業との両立って可能?
本業の伸びしろについて、先代とは考え方が違ったりしますよね。「もっとSNSで売ればいい」「自社サイトで売ればいい」という考えがあったとしたら、それはある種、本業だけど新規。「お世話になった卸先さんどうすんねん」とか「誰がやるねん」とか「どこから金出すねん」という話があるからモメるんであって、大きなくくりで言うと本業。本業がまだ何か1つエッセンスを替えることによって伸びる余地があるんだったら、それはその通り本業をやったらいい。
だけど、本業が今はなんとかプラマイゼロだけど、いつ赤字になるか分からないんだったら、属人性を排除して再現性を高めた上で新規事業をやりに行かざるを得ない。
自社ブランドを作って売っていく中、親父がすごいなと思ったのは、当時、売上の8割を占めてた下請毛の取引先に、後継者である自分を紹介しなかったこと。
これには2つ意味があると思ってて。自社製品を売り出すと、今までのお客さんとバッティングしますよね。私がやりにくいだろう、と。もし取引先から目を付けられて呼び出されたときに、「息子が勝手にやってるんです」と言えばいいですから(笑)。
強みを客観的に棚卸しして可視化せよ!
若手アトツギのオンラインサロンでメンターをやってるんですけど、彼らからはAIとかDXとか色んなビジネス用語が出てきます。でもぜーんぶ手段の話なんです。目的じゃない。
今の会社に入ったとき、家業の強みは何なのかと考えて社員に聞いたんです。そしたら「他に負けないデザイン性です」と答える。デザイン性って主観だから、「それって、自分で『僕イケメンです』って言ってるのと一緒やで」と言ったんです(笑)。可視化しないと伝わらへんよね、と。
じゃ、デザイン性の良さをどう伝えるか。ドイツの工業デザイン賞は、受賞本数によって世界の企業のクリエイティブランキングを付けてくれる。今、うちは世界で5位、日本1位。「で一番デザイン性がいい会社」と言える。強みを可視化して、しっかりお客さんに伝えられるようにしたことで、業績が一気に伸びました。
すったもんだのお家騒動を乗り越えて
僕は56人で組織を引き継いで今240人。元から残っているのは7人ぐらい。90%以上入れ替わってます。つまり合わなかった。そもそも言語が違う。
父親と僕との間に中継ぎで社長をした人がいたんです。結局、この社長が能力がなかったから2年で継ぐことになって。
その人は自分に分不相応に大量に株式を発行しようとしたり、事業もシンガポールの事業が3年間売上ゼロで今後も受注ゼロ。2億の累損がありました。僕は2014年4月に入社して6月に社長になって、6月の取締役会でシンガポールを閉めて特損を計上すると決めました。
僕がつくった損失でもないし、3年かけてできた2億の損失なんですけど、「アイツ、入ってきて2カ月で2億の損失出した」と社員が言い出した。「どんだけ金を使うんだ!」と。特損なんでキャッシュは出て行っていないということ、僕が作った損失ではないということを社員は理解できなかった。そういうものなのかと割り切ることにしました。
どなたかに相談したんですか?
しなかったですね。話が長くなりますけど面白い部分です(笑)。当時、前社長を追い出したがっているCFOが当時いて。追い出すための綿密なプランを見せられた(笑)。№1を追い出そうとしている№2がいるなんて信じられない。今度は自分が追い出されるかもしれないじゃないですか。当時は経営者の仲間もいなかったですから、自分で考えて調べて、納得がいかなかったら弁護士を替えて、というふうにやるしかなかったんです。
前の社長には辞めてもらって、CFOは後任を見つけてから、10月の定時株主総会の招集通知を印刷するっていう取締役会のタイミングのときに「株主としてあなたを再任するつもりはないですから」と言って定時総会で退任してもらいました。これが2014年。30歳のときです。
アウェー感満載のアトツギ。社内の仲間、どう作る?
社長を演じている以外の素の山根太郎を知っているのは、今でも副社長1人。商社マンで上海駐在中に、他の商社で管理部長だった人。上海テニス同好会時代のダブルスパートナーでした。今の会社に入ってから知り合った人は、代表取締役としての山根太郎しか知らない。でも、副社長は「伊藤忠のヒラ社員だった山根君」を知ってる。どっかで本当の自分を知ってくれてる人が会社の中にいた方がいいなと思ってて。
副社長は9歳上の先輩で、職位職責が自分の方が高くても、年功者に対してはある程度遠慮するし、適度な距離感も生まれます。それで今非常にうまくいっています。
家族は強いが、ヤヤコシイ
そう、そう、そうです。
これも典型的なアトツギ問題ではないでしょうか。よいときには何事もなく進むのですが、業績不振に陥った瞬間、お互いの醜い責任転嫁の応酬です(笑)。私から言わせると、どっちもどっちですが・・・これはかなりディープな話になってしまうので (笑)。
父に対しては、先代として、会社経営について正直、疑問を持たざるを得ないところがありました。ただ、一方で育ててもらった父という関係性もありますから、このままいくと、すべてに嫌悪感をいただいたままになってしまう。だから、「先代と現社長」という関係を清算して、「親子」でいようと思いました。それであるとき、父に退職金を支払って「もう会社には来てもらわなくていいです」と言いました。結果、今は良い親子関係です。仕事に関して口出しもされません。
しょっぱい思い出は数々あって…
自分にITスキルがなくて、プロジェクトを統率する能力もなくて。どういうベンダーが事業会社にとっていいのかを選定する力もなくて。「早くわかりやすい結果を出したい!」という見栄も焦りもあって。今37歳ですけど、30歳の自分を振り返って「青かったんやな」と思いますよね。
結局、知らんもんに手出したらアカン、ということ。自分で腹に入ってないのに「これでうまくいったらいいな」みたいな。しっかり計画も立てずにチームも作らずにやったら失敗することを学びました。
他にもあります。「わかりやすい結果ほしい」と思って、海外事業をやりました。台湾で代理店を見つけてきて、ジョイントベンチャーを起こしたんです。ソフトバンクの孫さんが自社は30%ぐらいしか持たず、合弁相手にマジョリティをもたせることで本気でやらせるというのを知って、真似してその比率でいったら、分かりやすく乗っ取られました(笑)。結果、1年ぐらいでJVも解消。「勇み足」「殿のご乱心」と社内で言われました。
失敗は続いたんですけど、1人でミスったのは2億ぐらい。でも、純投資で3億円稼いで返しました。そのときに初めて、自分のことを馬鹿にしていた社員が「やるんやー」と思ったんでしょうね。サーッと辞めていきましたね。デコボコあるけど、進んでいく方向は間違ってないと思った古参のメンバーは退いてくれた感じですね。
すべては自分ごと。人生を主体的に生きる!面白がる!
事業って楽しいんです。うまくいっていないときも多いし、そんなことの方が多いけど。
僕はサラリーマンだったとき、他部署が600億の損失を出したと聞いても「ふーん」って思っただけでした。痛くもかゆくもなかった。
今は「社員が結婚しました」「こんな案件取れました」「こんな失敗しました」とか全てが自分ごと。喜怒哀楽の絶対値が大きくなったというか、それですごく人生が豊かになったように思います。
「どうせ親の会社でしょ」とか「そもそも黒字の会社引き継いで何言ってるの?」とか言う人もいますけど、アトツギになるっていうことは、その意思決定をした瞬間に、人生を主体的に生きることやと思うんですよ。他人から何を言われようが、わが道を行けるチャンスに恵まれた境遇だと思います。
今は心から楽しいです。父親が亡くなってしまったこと自体は悲しいけど、彼はいいものを遺してくれた。それを次の世代につないでいく、しっかり残せるような会社にしていくのが自分のミッションです。
規模とかステージとか関係なく、継げる事業があることはチャンス。一緒にがんばりましょう!
やっぱり面白がることだと思いますね。自分にも色んな出来事がありましたけど、自分の身に降りかかることのどれもが、天が与えてくれたことなんだなぁと思います。
自社の資産の棚卸をして、それを生かすも殺すも自分次第。自分を磨いて、でも絶対に失敗した方がいい。僕らの話を聞いて「そうだな」と思ってもらうのもいいですけど、やっぱり自分で失敗しないと感じられないので、是非どんどん失敗してこういう場で経験を話してもらいたいですね!
アトツギ甲子園HPへ
■取材した人
ジル
ああ