「そろそろ経営者をやったほうがいい」 赤字だった家業に飛び込んでみた
奈良県
株式会社アクラム
代表取締役 勝谷 仁彦氏
奈良県北葛城郡広陵町に拠点を置く株式会社アクラムは、1942年に縫製業からスタートした。2000年前後には、ポリエステル繊維を直接転写で染める「昇華プリント」技術によるスポーツユニフォームの製造を開始。今ではこの技術が企業を支える軸となっている。
「家業の決算書を見て、あまりの財務状況の悪さに驚いたけど(笑)」。
そう語るのは、会計事務所で11年間コンサルティング業務に従事した後、家業を引き継いだ勝谷仁彦社長だ。葛藤はあったものの、自分の手で立て直そうと決意して家業に戻り、仕入れ先の見直しやオリジナルブランドの開発を行いながら経営を改善してきた。
現在は奈良の若い後継者に向けたベンチャー型事業後継プロジェクト『SG NARA』の代表も務める勝谷社長に、自身が経験した社内改革や組織づくりの舞台裏について話を聞いた。
出典:令和2年度中小企業庁/プッシュ型事業承継支援高度化事業/「ロールモデルのクローズアップ」事業「継ギPedia」(http://tsugipedia.com/)
決算書を見てショックを受けたが、家業を立て直そうと決意
まず、勝谷さんが家業に入るまでのエピソードから伺わせてください。家業を継ぐことは意識されてたんですか?
まったく考えていませんでした。ただ、祖父が地場の大きな縫製協同組合の長を務めていて。小学校の工場見学の行き先は祖父の工場でした(笑)。だから、実家が商売してるのはもちろんわかってたんですけど、継ぐことは意識してなかったです。
就職はまったく別の道へ?
高校からゴルフを始めて大学時代もずっとゴルフ漬けだったので、就職活動もゴルフメーカーしか受けませんでした。入社してからは百貨店催事や新店の設営のために全国を飛び回る日々で。すごく忙しくて。ずっとこのペースで働くのはきついと思ってました。
それで25歳のときに会計事務所に転職したんです。ゴルフメーカーでは店舗の売上報告なども担当してたんですが、その仕事をする中で数字を扱うのが好きだと気付いて。家業に入る36歳まで会計事務所で働きました。
会計事務所で11年働かれて家業に戻ってきたのは、どんなきっかけからですか?
会計事務所では、八百屋さんから売上高200億規模の会社まで、さまざまな決算書を見てきました。決算書を読めるようになったんで、ある日、親父に「決算書を見せてくれ」って頼んだんです。見てみたら、当時担当していた顧客と比べても、うちがワーストの数字でした(笑)。借金が5億くらい、売上は2億くらいで、債務超過が3億ほど。これは触れない方がいいだろうと、そこから5年はそっとしておいて(笑)、会計事務所で働き続けました。
それでも「戻ろう」と思うようになったということですか?
親父も70歳を過ぎた頃だったので、「継げ」とは言われてないけど、ほっといたら火の粉は僕のところに飛んでくるだろうとは感じてて。あとは、会計事務所で働く中で、顧問先である上場企業の社長さんとお話しする機会が多かったんですが、「勝谷くん、そろそろ経営者をした方がいいんじゃない?」と言われたのもきっかけでした。
今考えたら笑っちゃうんですが、「売上10億にしたら、そんなに悪くない会社になるやん」って思ったんですよね。決算書をずっと読んでて、9桁や10桁の数字を見るのに慣れちゃったからそう思ったんでしょうけど。実際にはそんなに甘くはなかったですが(笑)。
先代に「よくわからんから任すわ」と言わせる
戻られてからは、まずどんなことを?
アパレルのことはまったくわからなかったので、とにかく父の姿を見て真似ました。生地調達のために海外に同行して、次からは一人で行けるようにするなどですね。あと、父を真似るだけでは経営状態は改善できないので、生地の材料の仕入れ先を台湾だけでなくタイにも広げたり、製紙会社に勤める友人がいたので紙の仕入れ先も変えたり、営業に行かずとも問い合わせが入るようにウェブサイトを工夫したりしたんです。いろんなしくみを変えるときには、補助金も活用しました。会計事務所時代に培ったスキルで、申請書を作るのが超得意だったんで(笑)。
前社長からノウハウやナレッジを吸収しつつ、変えられることはどんどん変えていって、財務面を改善していったんですね。家業に戻ってこられて2年後に社長に就任されていますが、父上と対立などはなかったですか?
社長の交代のタイミングって難しいし、親子だと言い出しにくいですよね。だから、自分のスタイルを取り入れて、父親に「よくわからんから任すわ」って言わせるように持っていったように思います(笑)たとえば、それまではスポーツショップに大きなカバンを持って営業に行くスタイルだったので、HPを改善してインターネットから問い合わせがいっぱい届き始めたら、父はよくわからなくて僕に任せるようになるんですよ。
なるほど。戦略的ですね(笑)。ちなみに、今の事業の軸にもなっているスポーツのチームウェアブランド事業を始めるまでのいきさつも教えていただけますか。
ポリエステル繊維を直接転写で染める「昇華プリント」の受託加工事業は、父と母が2000年すぎから始めていました。周りに靴下屋さんが多いので、最初はストッキングに加工して模様付けをしてたんですが、「その技術を使って、スポーツチームのユニフォームを作れないか」と頼まれて始めてたんです。
やってみるとスポーツチームにウケて、チーム単位の小ロットのオーダーに対応してたんですが、利益は全然出てなくて。それで、僕が家業に戻って2年後の2012年に、昇華プリントを用いてチームオーダーウェアに特化したスポーツウェアを製造販売する「SQUADRA(スクアドラ)」というスポーツブランドにしました。OEM工場としてこの事業を続けるより、自らブランドになって展開していく方がいいだろうと思ったんです。
勝機があってブランドに転換したんですか?
ブランディングやマーケティングの勉強はたくさんしましたし、いろんな人に話を聞きました。あと、父が大手アパレル企業の下請けという立場で苦しんでる姿も見てきたので、脱却しなきゃという思いが強かったです。もちろん、ブランドとしてやっていく上でも大変なことはたくさんあるけれど、ブランド化を選ぶ方が会社のためにも仲間のためにもいいんじゃないかと思って。
ブランド名の「SQUADRA」は、イタリア語で「チーム」や「集団」って意味なんですよね。ユニフォームの衿タグ裏に刻まれている、「『勝つ』ことだけが目的では、勝負には勝てない」というメッセージもユニーク!
このメッセージには、人生の全ての経験から僕が得たものを詰め込んでるんです。会社ってチームだから、同じことが言えるんですよね。
少年サッカーのチームにもビジネスの世界にも通じる。すごくいいメッセージですよね。
生産と販売のバランスが崩れぬよう、年10%ずつの堅実な成長を目指す
家業に戻られて、いろんなことに取り組まれる中で、どんなことに苦労しましたか。
生産と販売のバランスを取ることですね。協力工場さんは年々増やしてますけど、海外に製造委託などはせず全部ここで作っているので、売上を倍にしようと思うともう一つ建屋が必要なんです。それは現実的ではないでしょう。だから、需給のバランスをしっかり取って着実に成長させるためにも、「売上を毎年10%ずつ伸ばす」という戦略にしてます。
製造業にとって、「売ったのに、製造が追い付いてなくて作れません」ってめちゃめちゃ罪なんで。特にうちは、子どもたちのユニフォームなどを作っているので、注文を受けたのに納期が長くなってしまって子どもたちの試合に間に合わない、なんてことがあってはいけないですから。過去には1日のキャパの5倍くらい発注が来て、大変だったこともあったので。今は大量発注を受けないなど、生産現場が疲弊しないようなしくみをつくっています。
ちなみに、キャパオーバーしたときはどういう風に対応されたんですか?
気合いで(笑)。うちの社員さんにはパワフルな者が多くて。女性が多いんですけど、みんな「どんと来い!もっと注文しておいで!私たちが対応してあげるから!」っていう素晴らしいマインドを持ってるので(笑)。
新型コロナウイルスの感染拡大で緊急事態宣言が出されたときには、社員が自らユニフォームのはぎれを使ってクオリティの高いマスクを作っちゃってた。「社長、マスク売ろうや!」って言ってくれたんです。1カ月で6000枚くらい売れました。
すごい!社員さんがそういった自発的なマインドをお持ちなのはどうしてなんでしょう。
よくわかんないんですよね。何か秘訣があるわけでもなく。ただ、強いて言うなら僕がめっちゃ現場に入るからですかね。縫うことはできないけど、一緒に検品したり畳んだり、繁忙期は自分にできる作業を手伝っているので。たぶん社員からは「社長は作業をする人」って思われてるんじゃないでしょうか(笑)。
現場に社長が入られると、社員さんは社長との距離が近く感じられますよね。すごく風通しの良い組織だと感じます。
各部署にリーダーは置いてますけどヒエラルキー型の組織にはしてませんし、うちは会議もしない。一時期は社員一人ひとりとの面談の時間も取ってたんですが、やめちゃいました。
え??
型式ばった制度より、日々の職場での会話を大事にするとか、日々しっかりとコミュニケーションが取れていることの方が大事だと思うんです。外回りが多い社員もいるので、社員には一人一台ずつスマートフォンを支給して、チャットでも気軽に話せるような環境をつくっています。
経験を“公共知”にして、若いアトツギに伝えていきたい
これから始めたいことや、5年後や10年後のビジョンはどんなものがありますか。
自社の会社を成長させることはもちろんですけど、アトツギや経営者としての自分の失敗談や経験やナレッジを、若い人に伝えていきたい気持ちの方が大きいんです。たとえば経営者塾って、どうしても著名な経営者やコンサルタントの教えを聞いて、それを各自が解釈して活かすって感じじゃないですか。
でも僕はそれよりも、各々のナレッジや経験をプラスもマイナスも含めて持ち寄って話せて、地域の公共知としていくことに価値を感じていて。だから奈良の若い後継者に向けたベンチャー型事業後継のプロジェクトである『SG NARA』の代表も務めているんですよね。
奈良のアトツギの方の活躍は、最近もよく耳にします。
奈良は「大仏商法」って昔から呼ばれてて、まだまだなんですよ。「奈良の大仏に参詣するお客さんを待つだけで、進んでお客さんを集める努力をしてないから、商売の規模が小さい」っていう意味なんですけどね。実際、上場企業も少ないし勢いあるベンチャーもあまり出てきていないんです。でも最近はそこに問題意識を持っている若いアトツギも増えてきてるので、彼らと一緒に奈良を変えていけたら面白いなと思っています。そのためには、うちもリーディングカンパニーにならないといけないですね。
そういうコミュニティが全国各地に生まれたらいいなぁ。アトツギが孤独感を感じずに、前向きに新しいことに挑戦できる!
本日は素敵なお話をありがとうございました。
【奈良県】
株式会社アクラム https://www.akuram.co.jp/
代表取締役 勝谷仁彦 氏
■取材した人
ティム
コテコテの理系男子の元ITエンジニアから結婚を機に土建屋アトツギへ華麗なる転身。この選択は正解だったのか...俺たちの戦いはこれからだ!!!