米の加工食品こだわりオンリーワンを極める、あとを継ぎたいと思える誇りを持てる会社に
ケンミン食品株式会社
代表取締役社長 高村 祐輝氏
国内唯一のビーフンメーカーであるケンミン食品株式会社は、ビーフン市場で半分強のシェアを占めるガリバーだ。戦後神戸に渡ってきた台湾出身の創業者が、東南アジアや台湾で食べたビーフンを懐かしむ人の声に応えてビーフンづくりを始めたのが1950年のこと。1960年に商品化した味付きのケンミン焼ビーフンは今なお愛されるギネス世界記録の世界No.1ロングセラーで、現在は全国に5つのビーフンレストランも展開している。高村祐輝社長は京セラで稲盛イズムの薫陶を受けた後、家業に戻り、「米のめん文化を伝えていくことが使命」とフォー、ライスペーパーやライスラーメンの商品化に取り組んできた。また、グルテンフリー食品としてのビーフンの強みを生かし、世界的に拡大する需要を見越して、グローバル市場に打って出ようと、2020年末にはタイに第3工場を開設したところだ。「よそにはできないことをやる」という信念を大切にしながら、「創業者以上の努力で、社員が誇りを持てる会社にしたい」と語る高村社長に、唯一無二のものづくりを受け継ぐ思いについて聞いた。
出典:令和2年度中小企業庁/プッシュ型事業承継支援高度化事業/「ロールモデルのクローズアップ」事業「継ギPedia」(http://tsugipedia.com/)
タイで製造、国内シェアは50%超
ただ1970年頃から輸入規制がかかり、日本ではインディカ米が手に入らなくなったのです。日本米では弱弱しいめん質で、それを補うためでん粉を入れざるを得ない状況になり、それでも満足のいくビーフンをつくることができませんでした。「米だけでビーフンをつくりたい」、米は五穀の王様と信じ、米からできたビーフンが人の健康のためになることを願っていた祖父は思い切ってインディカ米の生産地であるタイに工場を作りました。他にわざわざ海外に出てまで生産をする企業もなく、結果的にうちがオンリーワンになりました。
すごい決断だったんですね。高村さんはもともと家業を継ごうと思っていたのですか。
家業に対してはどんなイメージを持っていたんですか。
私が小学生の頃に、ユニークなテレビCMをやり始めたんです。現会長の父が、一度見たら忘れないインパクトのあるCMに、とお願いしてああいうCMができました。会社としてはあのCMでだいぶ飛躍したのですが、私自身は友達からよくからかわれました。今となっては笑い話ですが。
そうだったんですね。その後、今につながるようなご経験はなさっていますか。
大学時代はYMCAで子どもたちのキャンプや山登りを引率するボランティアリーダーをしていました。4年間続いたモチベーションは何だったのかなと考えると、子どもたちが喜ぶ姿を見ると自分もうれしかったというのがありますね。会社も社会に求められなかったら存在価値はないわけで、人のためにっていう考えはそこで身についたのかなと思っています。
京セラで学んだ経営哲学が礎に
大学卒業後の就職先は京セラを選んだのですね。
選んだなんて滅相も無くて、まわりが就活をしていたので自分もしなきゃという感じで活動を始めたものだからなかなか内定が得られなくて、たくさん失敗して苦労や運もあってなんとか拾ってもらえたと思っています。
京セラではどんなご経験を。
仕事だけでなく人生を幸せにする考え方、ふるまいを大切にした稲盛和夫名誉会長(当時)の京セラフィロソフィーが全社員に浸透していて、その経営哲学に触れることができたことがとてもありがたかったと思っています。
幸いなことに工場部門に配属となり、「現地現物現場」、「現場100回」と教えてくださり、現場で起こっていることを見て、知って、理解することがものづくりの基本だということを学びました。「現場の末端の仕事や社員の気持ちを知らないで、会社運営なんかできない」という稲盛名誉会長の言葉を聞いて、そこで初めて家業を意識することになり、若いうちに家業のものづくりの現場を経験したいと思い、家業に戻る決断をしました。
伝えることこそが経営者の使命
戻られてから実際にものづくりの現場を担当されたのですか。
2008年に会社に戻り、タイ工場に半年間研修し、2年日本をはさんだ後、2011年から3年間、タイ工場の責任者として再度赴任しました。
いろいろご苦労があったんじゃないでしょうか。
赴任した2011年はタイで大洪水があった年なんです。工場は幸い大丈夫でしたが、原材料や資材の生産者や取引先が被災しました。当たり前が当たり前じゃないということがわかり、いろんな方々に支えられて自分たちは仕事できるんだと痛感しました。
現地はタイ語が主流なのでコミュニケーションが難しく、自分が考えていることがどうしたら伝わるかを考えるきっかけにもなりました。日本に戻れば日本語で伝えればいいのだから簡単だろうと思っていましたが大間違い。日本語でも人に伝えるっていうことは難しいことなんだなとわかり、伝え方を常に考え、磨いていく大事さを感じました。
伝えようとしているから感じるご苦労ですね。
経営者の大事な役割の一つは決断したことを一生懸命伝え、社員を巻き込んでいくことだと思っています。
社長交代のタイミングは。
2020年が創業70周年で、その準備期間も必要なためその1年前、2019年に交代しました。会長もおそらくいろいろ心配もあると思うのですが、見守っていただきながら経営は任せてもらっています。
先代との関係に悩まれるアトツギもいるのですが、高村さんの場合はいかがですか。
会長とは仲が良いです。私自身、経営者として、まだまだ経験が足りていません。なので相談できる存在がそばにいるということはとてもありがたいことだと思っています。
グルテンフリーで世界市場へ
仲がいいのはうらやましいですね。先代の経営資源を生かしていった部分はありますか。
当社の強みである米を使っためん加工の技術力、そしてこのオンリーワン事業を磨き続けることが重要だと考えています。もともとビーフンというオンリーワンの商品をつくり続けてきただけに人と違うことをするのが当たり前という気風が根付いています。2年前には日本の企業では当社しかつくっていないライスペーパーの製造を始め、いまはライスラーメンの開発に着手しています。主力のビーフン事業についても、ビーフンのレシピを会社のホームページで毎日発信するような自分たちしかやらないことをしています。
ビーフンでもまだまだやれることはあるということですね。
他にも、小麦アレルギーの方やセリアック病の方にとってグルテンフリー食として役に立てることがあります。あるアレルギー支援団体が主宰するビュッフェイベントで、お子さんたちが「これ全部食べて大丈夫なの?」ってお母さまに確認しながら、笑顔でおかわりされるその姿を見てお母さまが涙されるという光景があります。
食品会社の社会的な存在意義ってなんだろうと考えた時に、そうやってすべての方に食べていただけるということはものすごい価値だと思っています。ビーフンの域を越えて、グルテンフリーのラーメンはどうだろう。アメリカのボストンで有名なTSURUMENさんと共同開発しています。ラーメンをあきらめていた人にもラーメンを届けていきたい。グルテンフリー焼きそばも商品化できるんじゃないかと考えているところです。うちの会社が存在することの意味を積み重ねて、お客様から必要とされる会社になっていきたいと思っています。
世界市場も見据えておられますね。
焼ビーフンは創業から10年目、1960年に開発された歴史の長い商品です。2020年、ギネス世界記録に挑戦し、「最も長く販売されている焼ビーフン」として認定されました。
また、2020年末に台湾でフェアをしたところ「台湾出身者が開発したギネス世界記録を持つ焼ビーフンが凱旋した」と現地で取り上げられました。日本ナイズした焼ビーフンがアジアに里帰りできたとうれしく思っています。
祖父母から学んだ社員に感謝する心
このコロナ禍でやりぬいたのはすごいですね。社長になられてからのご苦労は。
社長になってからの1年目は会社の売上は価格改定もあって落としています。そして2年目も、コロナ禍の影響で巣ごもり需要で家庭用商品こそ増えているものの業務用が落ち込んでおり、生き残っていくために何をしていかなければならないかを毎日考えているところです。
次にどのような変化が起こるのかまだまだ見えていませんが、まず行動してみて、やってみて間違えたら修正していくというように行動力をつけ、スピードを上げてやっていかないと、と感じているところです。
アトツギとして10年後のイメージは?
VISION2030として、現在国内のビーフン市場は年間1億食の市場で、これを2億食に増やし、100億円企業(現在82億円)を目指すという数値的な目標を掲げていますが、数値よりもむしろ大事なのは、必要とされる商品をつくり続けていくことだと思っています。コロナ禍の中で、例えば「ケンミン焼ビーフン」は、保存がきいて、味付きなので調味料なしで、3分調理で手軽に、野菜と合わせられ、すぐに出せる、つまり健康に気遣いながら手早く出せる料理としての価値を再認識できました。お客様から必要とされていることを磨き改善していくことがまず大事だと感じています。
社風で残していきたいことはありますか。
入社して1年間祖父と一緒に働くことができたのですが、祖父と祖母がよく「2人だけではビーフンはつくれない」と言っていました。創業当時、住み込みで5、6人の社員さんがいたそうですが、食糧事情もさほど良くない時代に、先に社員の方に食事を食べてもらって精を出していただいて、皆でビーフンづくりをしていたそうです。
社員がいないとビーフンづくりはできない。社員への感謝という考えから当たり前のように社風が育まれていて、私の役割はそういう社風をつないでいくことだと思っています。
創業者以上の努力で家業を守る
まさに創業から培われてきた精神なんですね。
会社を繋いでいくためには、社員がこの会社を好きな気持ち、製品や事業を通して社会に役立つ会社だなと誇りに思ってもらえることが大事だと思っています。製品や会社をより良くしていこうとか、変化に対応して次の新しいことを考えていこうという気持ちにもなれないと思うんです。次に自分の息子たちが継ぐかどうかはまだわかりませんが、ああこの会社って人の役に立ってる会社なんやなと感じることができれば、おのずと継ごうという気持ちにもなれるのではと思っています。
会社を誰が継ぐかと考えた時に、その会社に対して感謝と誇りを持てる人こそが継ぐべきだと思います。その中でも家業があったからこそ自分が生まれ、学校にも行くことができた。アトツギこそが会社に最も感謝でき、誇りを持てる人間であり、あとを継ぐ役割を持っているのではないかと思います。
私自身、優秀だから社長になったわけではなく、たまたま創業家に生まれたからこの立場にいるわけです。創業者のなみなみならぬ努力によって70年もの間会社が続いてきたことを考えると、創業者以上の努力で家業を続けていく覚悟をもって、社員やお客さんをはじめ会社に関わるすべての人を幸せに導くことが、あとを継ぐものの責任だと思っています。
力強い言葉、たくさんの響く言葉をありがとうございました。
【兵庫】
ケンミン食品 株式会社 https://www.kenmin.co.jp/
代表取締役社長 高村 祐輝 氏
■取材した人
ゴードン/編集長
"家業である和紙卸問屋で4代目候補として8年従事。
アトツギの苦悩を誰よりも理解していることから、孤軍奮闘するアトツギに感情移入しがち。関西大学「ガチンコアトツギゼミ」非常勤講師。"