伝統産業 桐箱屋のアトツギ、 若さを武器に「業界のバリューを上げる」
福岡県
株式会社増田桐箱店
代表取締役 藤井 博文
増田桐箱店は、1929年に創業した「桐箱」の製造メーカーである。お酒、陶器、漆、ガラス、着物など、あらゆる伝統工芸品を入れる桐箱は、中に入れる製品の価値を裏付ける重要な役割も担う名脇役だ。北は岩手の南部鉄器から、南は沖縄の泡盛まで。一日当たり5,000~6,000個の桐箱を量産できる強みを持つ同社は、福岡に拠点を持ち、全国トップクラスの生産ラインを持っている。現在は台湾、アメリカ、イギリスにも拠点を持ち、販路を拡大し続けている。
今回話を伺う三代目の藤井博文社長。20歳で入社をし、25歳で後を継いだ。桐箱産業が、衰退の一途を辿るのではないかと危惧した藤井氏が、始めた新規事業が「米びつ」だ。
桐箱屋が、なぜ米びつ作りを始めたのか。伝統という名の殻を破り、突き進み続ける藤井氏に話を聞いてみた。
出典:令和2年度中小企業庁/プッシュ型事業承継支援高度化事業/「ロールモデルのクローズアップ」事業「継ギPedia」(http://tsugipedia.com/)
祖父から孫へ。会社を相続すること自体に苦労した
今日はよろしくお願いします!自己紹介をさせていただくと、僕も実は福岡で、両親が運送業をやっておりまして。将来は後を継ごうと思ってはいるのですが、戻るタイミングとか、いろいろ迷っているんです。今日はいろいろ教えてください。
まず初めに、藤井さん自身はどんな経緯で入社を決められたんでしょう?
うちはちょっと変わっていて。祖父から孫に、代を一つ飛ばして後を継いだんです。おじいちゃんは、ものすごく頑固やったというかですね。社長業を誰かに引き継ぐことを70歳くらいまで、ずーっとためらっていたんです。というか渡したくなかった(笑)。
で、いよいよ誰かに渡さないかんな、という年齢になった時。僕は高校を卒業して、2年ほど台湾におったんですよね。そんなときにたまたまおじいちゃんが来て「この仕事、中国語使えるし、お前入らんか?」というきっかけがあって。それで入社したんです。
まあそうですね。将来は中国語を使った仕事をするんかなぁと、ぼんやり考えてはいたんでね。
当時の僕にとっての社長像なんて「昼からパチンコに行けるのかな」とか、「そんなに働かなくていいんじゃないかな」とかしかなかったんで。これはもしかして、究極の棚ぼたなんじゃないかと思いましてね。それですんなり引き受けた、という感じです。
何より祖父から孫に継ぐことになったんで、事業承継の手続き的な準備が全然できてなかった。仮に高齢のおじいちゃんが亡くなっても、土地や金融資産を引き継ぐ相続権がなかったんですね。なので土地を売却して新工場を建てたり、株を取得するために個人で金融機関から借り入れをしたり。 継いで仕事が大変、というよりも、引き継ぐにあたってやらなきゃいけないことが非常に多かった。継いですぐ新規事業を考えたとかいうアトツギの話をよく聞くけど、僕はそれどころじゃなくて。もっと手前の課題を解決するために、ずいぶん苦労しました。
「桐箱」から「桐製品」へ。社内の意識が、どんどん変わっていった
いやね、僕が社長になったとき友達に聞かれたんですよ。「お前社長になったんだろう?」って。何してるのと聞かれたから「桐箱を作ってる」と言っても、誰も桐箱を知らないわけですよ。 当時も売上はまあまあ大きかったんだけど、僕の周りの人間が知らない製品って、果たして10年後、それはマーケットと言えるのかなって思ってね。 僕たちがやっている桐箱というのは、中身の器やお酒が売れて、初めて仕事になる業種なんです。だから桐箱自体の価値を伝えていかないと、10年後には自分たちの食いぶちが厳しいんじゃないかと思ったんです。それで「桐箱」から「桐製品」にシフトするというのを始めました。
職人も「今さらなんで米びつなん?」とか「どうせ売れんのに、何か若い社長がやってるよね」とか、そんなリアクションだったと思います。
だからとてつもない受注をとってきて職人を一気に追い込んだら、僕が変われるんじゃないかと思ったんですよ。
そうですね。おじいちゃん年代の職人も「今日、〇〇〇モールに行って、20分ぐらい商品を眺めてた」とか言ってます。「もう不審者やな」って(笑)。 でも「どう物を作るか」だけじゃなく「どうやったら工夫できるか」、「こうやって工夫したら、もっと速く作れる」とか、そういう会話が社内で飛び交うようになったんです。トヨタ式でいえば「改善(カイゼン)」ってこんな感じなんだろうなぁって。
若くして家業を継ぐメリット「お金を借りやすくなる」
若いからこその資産って絶対あると思いますよ。僕が25歳で社長になったときは、「伝統ある桐箱屋の三代目を、若社長が継いだ」というのが、メディア的にも食いつきがよかったのか、テレビなどでもよく取り上げられました。それはまぁご祝儀じゃないかと思ってますね。
もう一つ良かったのは、銀行にお金を貸してもらいやすくなること。銀行が僕に貸す最大のメリットは「若さ」しかないんですよ。そこを逆手にとって「今思いっきりアクセル踏めるな」って思って突き進んでましたね。
それができたのは、やっぱり無知だったからですね(笑)。当時は「億単位の借金が怖い」よりも「進めばなんとかなるかな」と。無鉄砲な計画じゃなくて、自分が120%で常に動き続けることが、返済の一番の近道だと思っていたので。そういう意味で自分を鼓舞していたところもあるんですね。
例えば建物とかでいくと、47年償却とかになるんで、25で継げば、生きている間に絶対この借金の返済が終わるんですね。それがたぶん若くして事業を承継する強み。50歳から、47年の借金は組めないんで。金融機関が僕の「若さ」を見てくれていた、というのは強かったです。
先が見えなくても、くよくよしている暇はない
このままいくと、いずれ他人の話を聞かなくなることかな。すでに「独裁者」みたいな言われ方もしますし(笑)。
自分では聞いているつもりなんだけど、あまりに僕が信念を持ってやりすぎて突っ走っているので、それが周りからすると独裁者に見えるみたいですね。
なんとも別に思わないですね(笑)。
桐箱業界が将来明るいんであればいいんですけどね。このぐらい興奮して仕事をしないと、この業界は変えられんだろうっていう、反骨精神もあるんだと思います。毎日やらなきゃいけないことが多いから、テンション上げて、乗り切っていかないといけないですからね。
競合と手を組み、桐箱業界のバリューをあげる
もっとこの業界のバリューを上げたい。そうじゃないと10年後、20年後に、狙っている取り分というか、給料や利益はつくれないんじゃないかな。そんなにホワイトな業界ではないんでね。
だからいま力を入れているのは、ライバル会社の桐箱屋さんとね、個別に飲みにいくことなんです。最近はコロナで控えてますけど。
桐箱の先にある世界の未来を救いたい
何が言いたいかというとね。ちょっとでも顔を知っていたら、本当にピンチのときって頭に浮かぶんじゃないかなと思って。やっぱり弱みが見せられないぐらいのピンチというのは絶対やって来るし。だから、競合とも切磋琢磨しながらも、最後は頼るという関係が業界にあれば、僕は十分じゃないかなと思っていて。
向こうは嫌かもしれんし、かといってこっちはなんとも思ってないけど、でもそれが、桐箱の先にある酒蔵だったり、陶芸家の未来を救う、そこにつながるんじゃないかなって。
「世界一の木工所」を目指して
僕の会社って、今は周りから「桐箱専門店」とか「桐箱一筋90年」みたいなキャッチコピーを付けられているんだけど、僕自身は「どんな木材でも、四角い物を作るのが日本で一番うまい会社」っていう解釈を持っているんですね。
だから「桐箱専門」とか「昔ながらの変わらない」とかじゃなくて、僕らこそ変わっていって、工芸品の業界を盛り上げられる立ち位置に行きたいなと思っています。
そして、より量産したい、よりもっといい物を作りたいという思いで、海外輸入品を倒そうと思っています(笑)。
【福岡】
株式会社 増田桐箱店
代表取締役 藤井博文 氏
■取材した人
マッキー
1995年生まれ。ベンチャー企業に勤務しながら、アトツギベンチャー取材やイベント運営を担当。