閉鎖的だった町工場を外向きに変えたアトツギムスメの信念と行動力
山本製作所有限会社 【愛知県】
代表取締役
田中倫子 氏
「父が急死して、『会社が無くなると、父が本当にいなくなっちゃう』ような気がしたんです。もう父の肉体は無いけれど、唯一私にできる親孝行があるなら家業を継ぐことじゃないかって」
そう語るのは、愛知県豊川市で真鍮材を使用した電気部品の加工などを手掛ける、山本製作所有限会社の田中倫子さんだ。
もともと看護師としてキャリアを積んでいたが、父の急死をきっかけに、それまで考えたことも無かった家業に入る道を選び、2012年から3代目として率いてきた。当初、家業に入ることを誰からも賛成されなかったという。
長く勤めていた従業員が、「無知で若い女性の下では働けない」と去っていくなど苦難が続いた。しかしどんな逆境でも、彼女は諦めなかった。自分が目指すべき方向性を全社に打ち出して、共感できる仲間を巻き込みながら新事業の展開や組織改革を重ねてきた。
「製造業のため、地域のため」という広い視野を持って行動を続ける田中代表に、その原動力やビジョンについて話を聞いた。
きっかけは父の急死。全員から反対されても、自分が継いで会社を残したいと思った
祖父の代から主力の事業としていたのは、真鍮材、真鍮ダイカストを使用した電気部品の加工で、現在は売上の6割くらいを占めています。父の代まではこの事業1本だったのですが、私が代表になった際に1社依存型のビジネスに危機感を感じ、事業を拡大して自動車業界や住宅業界とも取り引きを広げました。
メインはBtoBだと思いますが、今はBtoCの商品も販売されていますよね。
2年ほど前から、キャンプ用品などBtoCの自社商品の開発に取り組んできました。去年は、コロナ禍で生まれた新たなニーズを汲んで、「しっぽ貸し手」というマスク掛けや、「しっぽ使っ手」という卓上マスク置きもリリースしました。これらも、真鍮切削加工技術を活かして生み出したものです。
家業に入るまでってどんな人生だったんですか?
私、小さい頃から「16歳で結婚したい」という夢があって。高校1年生の10月に9歳上の方と結婚しちゃったんです。翌年に長男を産んで、19歳のときに次男を産みました。
えっ!10代で結婚と出産を経験されているなんて。いきなり想像をはるかに超えるエピソード登場(笑)!!
ただ、結婚する時に両親に猛反対されて。認めてもらうための条件が、「高校3年間を終えた時に、他の人と同じフィールドに立って社会に出られるように、大検(現・高卒認定)を取りなさい」というものだったんですね。それで、親との約束を守ろうと、子育てをしながら大検を取りました。
それは大変ですね。おそらく世の中には、田中さんと同じ立場で親からそう言われたときに、駆け落ちしたり、縁を切っちゃう人もいるように思うんです。でも、田中さんは親との約束を守ろうと思ったんですよね?
はい。好き勝手に生きさせてもらって、結婚を決める時まで「なんでそっちを選ぶの?」と思われるような道を私は選んだわけです。それでも、両親は条件と引き換えに認めてくれようとしていて。私もそこに両親の愛を感じていたからだと思います。当時は反抗期だったので仲が良かったわけではないですけど、その愛は裏切っちゃだめだなと。
なるほど。ちなみに、16歳で結婚するときには家業のことは意識されてなかったんですよね?
意識していませんでした。姉と私の2人姉妹なので、父はたぶん継がせることを諦めていたと思います。工場の中が危険なので、昔から私も姉も「危ないから会社に来ちゃだめだ」と言われていて。父がどんな仕事をしているのかも知らなかったです。
「旦那さんに継いでもらいたい」とはならなかったんですか?
主人も自分で会社を経営してたので、言われなかったですね。
なるほど。それで、子育てをしながら働かれていたんですか?
専門学校に行って看護師の免許を取ったので、継ぐまでは総合病院の看護師として働いてました。
看護師になったのはどうしてですか?
私自身がもともと水泳の選手だったこともあって、最初はアルバイトとしてスイミングスクールで子どもに水泳を教えていたんです。同じころ、近隣で水難事故があって、子どもに重度の後遺症が残ってしまったと聞いて。私も同じ年代の子たちを10人くらい見ていたので、「同じことが起きたときに助けられるだろうか」、「責任を持って子どもたちを見ているか」と不安になり、救命処置の勉強を始めたんです。すると、その勉強が楽しくなって。それが看護学校に行こうと思ったきっかけです。
▲看護師時代。職場の同僚と。
素敵なきっかけですね。実際、看護師として働いてみてどうでしたか?子育てとの両立は大変そう。
看護師は天職だと思いました。「こんなに感謝されて、お金まで貰えるなんて、なんて素晴らしい仕事なんだろう」って(笑)。
でも天職だった看護師を辞めて、2012年に山本製作所に入られたのはどんなきっかけからだったんですか?
きっかけは父の急死です。
結婚してから、父と会うのはお盆やお正月くらいだったのもあって、急死したときも「いなくなった」という感覚がすごく薄かったんです。ただ、父の会社をどうするかというときに、「会社が無くなると、父が本当にいなくなっちゃうな」と実感してしまって。もう父の肉体は無いから、親孝行はできない。けれど、何もできない中で唯一私にできる親孝行は、どうにか父の会社を残すことじゃないかって思ったんです。だから、大好きだった仕事を辞めてでも、継ぐことを決めました。
いきなり代表に就任するわけですよね。1人で決めるにはかなり重い決断だと思うんです。お母様やご家族に相談して決めたんですか?
たくさんの人に相談しました。ただ、誰も「継いだ方がいいよ」とは言ってくれなくて。
「看護師の方が絶対に安定してるよ」、「製造業は大変だよ」、「若い女の子ができるほど、甘い仕事じゃないよ」、「社員の人生も背負えるの?」って、全員から言われました。だから、みんなの反対を押し切って1人で決めたんです。
どんな反対を受けても、お父さんに対する思いが上回ったんだ。尊敬します。ただ、家業を継いで社長になることで、生活リズムも変わりますよね。旦那さんや息子さんの反応はどうだったんですか?
主人は「お金に困っているわけでもないし、無理にしんどい道を選ばなくていいのに」という気持ちだったと思います。家業だけが原因ではないですが、「自分の人生を生きたい」という私の思いもあり、結婚10年目に離婚しました。今は応援してくれています。息子たちは、私が継ぐときにある程度大きくなっていたので、「お母さんの人生だから好きに生きな」と言ってくれました。今は大学生と高校生ですが、バックアップしてくれています。
家族も応援してくれているんですね。何より田中さんの覚悟を息子さんたちにちゃんと伝えられているのが素晴らしいです。
「女社長は嫌だ」「変革についていけない」と社員が去っても・・・
ここからは、家業に入ってからのお話を伺おうと思います。製造業はいわゆる「3K(きつい・汚い・危険)」と形容されてきたように、看護師とは全然違う世界だと思っていて。入ってみて違和感は感じられました?
違和感だらけでした(笑)!「この環境下で仕事するの、やだなあ」と正直思いましたよ。ただ、入ってすぐに「看護師と共通点だらけだ」と思ったことが一番印象に残っているんです。
どういうことですか?
それこそ、製造業の現場環境に求められる「5S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)や、品質管理の姿勢、またお客様とのコミュニケーションをとっても、医療現場と何ら変わらないなと思ったんです。特に、医療現場で学んできた5Sなどはすぐ反映できるなと。
そう聞くと、確かに共通項がありますね。ただ、いきなり社長として入られたわけじゃないですか。社員の方とのコミュニケーションは難しかったんじゃないですか?
もちろんそうです。私の勉強不足もありますが、「無知で若い女性になんか、ついていけない」と辞められた方もたくさんいます。父の代からずっと残ってくれている方は、当時パートでその後正社員になり、今は管理職を勤めてくれている女性1人だけです。
辞めていった人たちは、田中さんの新しく打ち出した方針や変革に賛同できなかったと言うことですか?
そうですね。私が入って最初に取り組んだのが、会社の経営理念とスローガンを作ることで。私が思い描く、小さな船の方向性を一番に決めて、そこに一緒に向かって行ってくれる従業員に残ってほしいと思ったからです。だから、その段階で辞めて行かれた方は多かったですね。
一気に辞められてしまうと、仕事が回らなくなったんじゃないですか?
はい。だから、自分で現場に入って機械を動かしました。プログラムもわからなければ、機械がどう動くのかもわからないので、本当に徹夜の毎日でしたね。プログラムや機械や保全や材料について勉強して、自分で全部を動かせるようになるまで4年くらい掛かりました。その間に去ってしまわれた取引先ももちろんあります。
過酷ですね…!身体は壊さなかったですか?
1回だけ倒れてしまったこともありますし、機械の前に行くと怖くて手足が震えることもありました。でも、なんとか出来るようになって・・・なんか乗り越えちゃったんです(笑)
いやあ、すごすぎる!ほんとパワフルですね。
外向きの組織を目指すため、BtoC事業へ進出し、地域との連携を強化
新規事業にも挑戦してらっしゃいますよね。BtoC領域に進出してECでの商品販売も始めたのは、どういった理由からですか?
もともとBtoBの、図面を介して物を作る仕事だけをやっていたんですが、最終ユーザーが誰かわからないものを作っているという状況だったこともあり、なかなか社員のモチベーションが上がらないことに悩んでいて。お客様の利用シーンが目に浮かびやすい、BtoCの商品の製造に携われば、メンバーのモチベーションが上がるのではないかと思ったんです。
そっか。社員のモチベーションを上げたいという気持ちがきっかけだったんですね。
あとは、商品に不備があったときに取引先の品質保証部からクレームが来ることはあっても、最終ユーザーからのクレームや改善要望はまったく届かなくて。そんな状況は、会社として長期的に見るとリスクだなと感じたんです。それで、「お客様の声を直接届けてもらえる方法は何か」と考えた結果、自社のECサイトを開いて、お褒めのコメントもクレームも受け付ける体制を作りました。
ちなみに、BtoC事業を始めてから社員の方に変化はありましたか?
すごく変わりました。お客様からの声をミーティングで共有することはもちろん、お手紙が届いたときは社員皆で見るなど、全社でお客様の声を受け止めるようにしています。こうすることで、今まで見えなかった「BtoBの製品の先にも、同じようにお客様がいる」ことにも気付けたようで、総じてモチベーションが上がっています。
使う人を意識してものづくりをするって、やっぱり大事なんですね。組織としての変化についても伺いたいのですが、当時は大変だったものの、今振り返ると「あのとき、経営方針やスローガンを掲げていてよかった」と思いますか?
それは本当に思います。当時は、組織としての一体感が無く、社員も「自分の仕事だけやっていればいい」という感覚の方がほとんどで。ただ、経営方針やスローガンを決めて共感してくれる仲間を集めたことで、一体感が生まれました。今は離職率もすごく低いです。
だんだんチームになってきたんだ。
何より、経営理念に立ち返るという姿勢が、社員にすごく浸透しているなって感じるんです。うちの経営理念は、「時が流れても変わらない人の温もりを感じるモノ作り」で。以前、とある災害があった際に、災害関連の低単価で大変な仕事と、定例の利益率の高い仕事が同時に入ってきて。「社員に残業をさせてまで取り組んでもらうより、ルーティンの仕事をやってもらった方がいい」と私が判断したところ、ある社員から「今、うちの会社がやらなきゃいけない仕事はそっちじゃないでしょう」と怒られました。「経営理念は、迷ったときに立ち返る場所だよ」とずっと伝えてきたことが浸透している証拠ですし、当時は私の方が気付かされてハッとしました。
素晴らしいですね。他に、田中さんが主導して新しく始めたことはありますか?
地域に根付いた活動に力を入れています。たとえば、豊橋市のSDGs推進パートナーになったり、世界の子どもたちのワクチンに変えるためのペットボトルのキャップ回収などを行ったりしています。こうした活動をしていると、近所の方がキャップを持ってきてくださるなどコミュニケーションが生まれるんですよね。
なるほど。
製造業って、外部の方が工場に足を踏み入れる機会が無いので、地域でずっと事業をしているのにすごく閉鎖的だなと思っていて。それって、おそらく「いいものは隠そう」という体質が、昔から製造業の中にあったからだと思うんです。でも今の時代、良いものは共有して、悪いものは周りから「悪い」と指摘してもらえた方が、企業として成長できると思うんです。それに、地域の皆さんと助け合えるような関係性が築けたらいいなと思うので、全員で地域活動にも取り組んでいます。
EC事業のお話を聞いていても思いましたが、内向きの体質から外向きの体質へ、大きく変革をされてきたんですね。
「正直であること」は父から受け継いだ
いろいろなお話を伺って、田中さんは根っからの経営者気質であり、途中で投げ出さずに粘り強く努力し続けられるパワフルな方だという印象を抱いたのですが、根っこの原動力は何なんですか?
「人に支えられてきて、愛されてきた」という実感が一番の源だと思います。父や家族にもすごく愛されてきましたし、経営者になって苦労したときも、いつも誰かに助けられてきたんです。「コロナ禍で、製造業は大変だろうから」と、SNSで私の活動を見かけたという、見ず知らずの方が差し入れを送ってくださったこともあって(笑)。「人間捨てたもんじゃないし、必ず愛してくれてる人がいる」という思いが私の原動力なんです。私のことを思ってくれる人が1人でもいる限り、その人のために頑張ることができますね。
素敵ですね。ちなみに、田中さんはお父様と一緒に現場で働いたことは無いわけじゃないですか。そんな中でも、人としてや経営者として、お父様の言動や姿勢などを「受け継いでいるかも」と感じることってありますか?
私、よくも悪くも父に嘘をつかれたことがないんですよ。子どもの頃、「休みの日にどこか連れてって」と言っても、いい返事をくれなくて。その理由が、「自営業で忙しいから、約束しても連れて行けるかどうかわからない。約束が嘘になるのは嫌だから、約束しない」というもので(笑)。
お父さん、とても正直な方ですね(笑)。
当時はそれがすごく嫌だったし、子ども心に「父親は私より仕事が大事なんだ!」って思ってたんですけど、今思い返すと娘に嘘がつきたくない真面目な父親だったんですよね。その気質は引き継いでいて、私も子どもたちに嘘をつくのは嫌だし、社員にも嘘をつきたくないんです。だから、ときには経営者としてのプライドを捨てて、「助けてほしい」「私にはできない」って素直に言うようにしてます。経営者だって人間なので間違うし、完璧じゃない。そう自分から開示すると、みんな理解して助けてくれるんですよね。包み隠さない姿勢は、父から受け継いだところかもしれません。
経営者から社員にさらけ出して助けを求め合える関係って、いいですね。これからは、どんな会社を目指していきたいですか?
今は製造業が主力事業ですが、今後は飲食に関わる事業と医療に関わる事業も展開します。三本柱を持ち、人の生活に欠かせない領域を担える企業になりたいというのが、代表に就任した当時から掲げている大きなビジョンです。
事業の多角化のビジョンを持たれているんですね!他に、取り組んでいきたいことはありますか?
経営者になってから、世の中には「黒字なのに、アトツギがいないために廃業を選ぶ企業」が多くあると知りました。多くの中小企業が日本のものづくりを支えているからこそ、どの企業にも無くなってほしくないので、日本国内で回っている仕事が海外に取って代わられないように、積み重ねてこられた技術やノウハウがゼロにならないように、自分たちができることに取り組んでいきたいなと。その一歩目として、今年中にM&Aを行う予定です。
「社長業は素晴らしい、楽しいよ」息子にも伝えたい
自社だけでなく、外部にも目を向けられているのが素晴らしいです。製造業の未来を守りたいという思いがベースにあるんでしょうか?
うちは小さな会社だからこそ、周りの企業さんや地域の皆さんが幸せだと、引き上げられるように自然と利益が上がります。逆に、自分たちの利益だけを考えているときは、たとえ一瞬は上がっても全然持続しないんです。いろいろな企業さんと手を組んだり、地域に目を向けたりする中で、「気付いたら、うちの会社も潤っているなあ」という経験が何度もありますし、その方がサスティナブルだなと感じるので。
視野の広さが素晴らしいですね。今後、息子さんに会社を継いでほしいという思いはあるんですか?
ちょっと前までは、「可愛い息子たちに、こんなつらい思いはさせたくない」と思っていたんです。けれど、社会を見て、多くの経営者さんと出会って、いろんなことに取り組んできた中で、今は「私の仕事って、素晴らしいし、楽しいよ」と胸を張って言えるから、息子にも継いでほしいなって思います。
息子さんは何かおっしゃってますか?
私が継いだ当初は、「絶対に継ぎたくない。サラリーマンになる」って言ってましたけど、今は「会社を継いでみたい」「経営学部に行きたい」って言ってくれていて、背中をちゃんと見ててくれてたのかなと思うとうれしいですね。「お母さんと一緒ならやりたいな」と、思ってくれてるように感じます。
後を継いだ立場から今後継がせる立場になる中で、田中さんが「どういう風にバトンを繋いでいきたいか」という思いを伺えて、胸を打たれました。最後に、これから家業を継ぐかもしれないアトツギの方に向けて、メッセージをいただけますか。
後を継ぐか迷っていたときの自分を振り返ると、「絶対に継いだ方がいいよ」と言ってくれる人が一人もいなかった。だからこそ私はアトツギになるか悩んでいる人に対して、現実は甘くないし、1000の失敗の中に1個道が開けたらいいなっていう日々の連続でも、「迷うくらいなら、絶対に継いだ方がいいよ」って言ってあげたいんです。アトツギって、なりたくてなれるものではない。大げさに言うと選ばれた立場だと思うし、恵まれた環境の中にいるわけですから。無責任かもしれないけれど、私は「きっと、やったら楽しいよ」って伝え続けようと思います。
誰もがアトツギになれるわけではないというのはその通りだし、いかにポジティブにとらえてチャレンジできるかですよね。信念を持って行動を積み重ねてきた田中さんの言葉に勇気を貰いました。本日はありがとうございました。
【愛知県】
山本製作所有限会社
■取材した人
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