「不自由」の壁を「入力」でなくす―「入力」から始まるアトツギの社会革命―「アトツギ」を世界へvol.2―
一般社団法人ベンチャー型事業承継によるシリーズ連載「『アトツギ』を世界へ」の第二弾。
これから世に出ていく挑戦的なアトツギたちは、まだ若い世代であるがゆえに、大きな挑戦を許され、超ニッチ戦略や大胆な戦略へと舵を切る。
ベンチャー型事業承継の審美眼を通ったアップカミングなアトツギたちの挑戦を眺める。
出展:リンクタイズ株式会社運営「Forbes JAPAN」SMALL GIGANTS AWARD(https://forbesjapan.com/small_giants/)
(記事:https://forbesjapan.com/small_giants/article/detail/22072701.html)
一つの出会いがもたらした新製品、そして新たな方向性
福祉用具メーカーのテクノツール株式会社は、難病や事故で肢体不自由などになった人々のために、日常生活や勉強、仕事などを支えていくさまざまな器具を開発、製造、販売。良質な海外福祉用具の輸入も手掛けている。そんな同社のアトツギとして島田真太郎が日々奔走していた2018年の夏、取締役だった島田に一つの出会いが訪れる。この出会いが、島田たちにあるきっかけをもたらすこととなった。
当時、社では製品の営業カタログを刷新するために、それまでの利用者の声を取材していた。ある時、ある利用者の部屋を訪ねて島田は驚いた。「すごくマニアックな雰囲気の部屋でした。その方はほとんど体が動かせないんですけれど、どんなふうにゲームをやっているのか、その工夫を見せてくれました。僕たちの製品はゲームで遊んでもらうために開発しているものではなかったのですが、とにかくその方の工夫がすごいんです。」そんなユーザーの姿に島田は気づかされた。「ここまでしないと、この人はゲームができないのか。そもそも多くの人はここまでできないのではないか。」ここから島田の奮闘は始まった。
入力を工夫しゲームに取り組む様子
そこで島田は、そのユーザーの方法を再現して広めてみようと思い立つ。だが、ただ広めても同じことができる人はなかなか増えないし、ビジネスとしても難しそうだった。最終的に、島田は専用のゲームコントローラーを作ることを決意した。それもゲームメーカー公式ライセンスのコントローラーである。「公式でなければ、いつまでたっても障害者はイレギュラーな存在のままになってしまいます。」
もともと、社には「入力」という機能に対するノウハウが蓄積されていた。「基本的には、僕らのやってきたことの延長線上に発展させていくイメージでした。」とはいえ、ゲームコントローラーの開発は、彼らにとって初めての経験には違いなかった。それまで社が手掛けていたのは種類が少ない単調な入力が多かったため、ゲームコントローラーのようなシンプルな操作で短時間に複雑な入力を可能にするには、頭を切り替える必要があった。ゲームという世界を突き詰めていくと、「この一瞬が勝負、0.1秒でも遅れたらもうダメ」という、極めてシビアなタイミングが要求される世界に行きつく。島田たちはヒアリングや研究を重ね、その複雑な仕様を練り上げていった。公式ライセンスを認めてもらうために、公式ライセンスコントローラーをこれまで数多く手がけている企業、ホリに話を持ちかけた。快く開発を引き受けてくれたホリと共に、テクノツールは監修としてユーザーや専門家の協力を仰ぎながらゲームコントローラー「Flex Controller(フレックス・コントローラー)」の開発・販売に至ったとき、彼らの前には新たな道が開けていた。
「ユーザーが増えたことで、自分たちだけの視点では気づくことのできなかったニーズや要求がたくさん見えてきました。ゲームコントローラーを手掛けたことが呼び水となり、当事者がいろいろな要望や企画を社に提案してくるようにもなりました。やればやるほど課題は増えていく感じですよ。だから今でも、Flex Controllerという商品は決して100点ではないと思っています。これがゴールではなく、スタートだと思ってやっていくしかないですね。」
Flex Controllerを利用しているユーザーの様子
人生どうなるか分からない……「やりたい時にやってしまおう」と家業に飛び込む
もともと島田は、跡を継ぐことについて特に何も言われずに育ってきた。新卒の就職活動のタイミングでも、家業に戻るかどうかをはっきり決めていたわけではなかった。一方で、「人生を長いスパンで見て、家業という選択肢もある」と思ったのも事実。「いつか家業に生かせる仕事ができそうな金融業やメーカーを重点的に就職活動しました。」
大学卒業後は電子部品メーカーに入社し、鉄道車両製造企業に供給する部品の営業に配属された。就職して3年が過ぎたころ、島田の中に、起業も含め経営に対する興味がどんどん湧くようになる。家業に対する意識も高まっていた。だが、リスクを考えるとなかなか踏み出せない。そんな時、東日本大震災が起きた。
「僕も僕の家族にも直接的な被害はなかったけれど、いつ人生がどうなるか分からないと実感しました。モヤモヤしているのなら、やりたい時にとりあえずやってしまったほうがいい、と決意しました。」島田の頭の片隅にあった、「家業に入る」というスイッチが入った瞬間だった。「家業には家族のストーリーがあるのだから、それをなくしたくないという思いもありました。」
当時の社長であった島田の父親は、島田のために経営企画部という部署を新設した。というのも、これまで社には新しいことを手掛けていこうという機運があまりなかったので、島田を従来の指揮系統の中に置くよりも、外部の視点を生かせるポジションを任せたほうがいいと判断したのだという。
入社後、島田は家業を見渡して感銘を受けた。社内には人に寄り添える人間がたくさん働いている。その一方で、強く感じたのは「人に寄り添う」ことをビジネスにするのは難しいということだ。「業界の中でも、日本全体で見ても、弊社はものすごくユニークなことをやっている会社でだと思いました。なのにもったいない、もっと収益を上げる可能性があるんじゃないかと思いました。」当時は、新規開拓営業も展示会に出る販促活動も、ほとんど行われていなかった。島田は、まずそこから着手しようと動き始める。
前述のゲームコントローラーの企画が始まった2018年には、島田は現場をある程度任されるようになっていた。「父もこの企画には前向きでした。ゲーム市場の規模は大きいし、今までテクノツールでやってこなかったジャンルということで、『やってみればいい』と協力してくれました。」
そして2021年9月、島田は代表取締役に就任する。「代表になってからは、当事者様や、各分野の専門家、例えばシミュレーターを作る会社の方やドローンに詳しい方などと一緒に、チームでプロジェクトを進めることも増えました。アイディアもユーザーから提案されることのほうが多いです。彼らがもっと社会に参加できるかたちを増やす、ということを一緒に考えています。」
理不尽さへの挑戦が自分を突き動かす
島田は自身を振り返ってこう述べる。「僕は、学生時代から高い意識があったわけではないし、今でも、ほかのアトツギの人と比べて特別に熱い人間ではないと思っています。モチベーションにもかなり波があります。」そんな島田だが、「今の自分は昔よりモチベーションが高い」と言い切る。「経営はきついしことだし、自分はまだまだ未熟ですが、それでも自分でいろいろハンドルできるおもしろさがあります。それから、障害者と言われている人たちにまつわる課題には理不尽なことが多いと思っているのですが、自分が『おかしい』と思ったことに自分で意思決定をしてチャレンジできることにも、おもしろさを感じています。」そして最後に、今後の自身の夢についてこう語る。「今の世の中では、体が不自由というだけであらゆるチャンスが制限されてしまっています。そのような中で、当事者様やさまざまな企業と一緒に、不自由の壁を少しでもなくしていきたいと願っています。障害の有無にかかわらず、個々人の個性、打ち込んでいること、可能性などに目が向く社会を作りたいし、そのために少しでも役に立ちたいです。」
2022年3月、中小企業庁が開催する第2回アトツギ甲子園で、島田はファイナリスト15名に残っている。だが、島田にとってこのイベントの成果は賞や評価ではなかった。「事業パートナーを見つけよう、ということを大事にしていました。出る以上は優勝を目指す気持ちはありましたが。自身の方向性がガチッと固まったことが大きな成果でした。」
島田の物語は始まったばかりだ。