地域に根差した「外構工事×エクステリアEC」で泉南市初の上場を視野に
ハンワホームズ株式会社 代表取締役 鶴 厚志氏
植栽やウッドデッキ、門扉など建物の外の空間を整える外構工事で創業したハンワホームズ。2代目の鶴氏はそこにエクステリアのECサイト事業を加え、外構工事業と掛け合わせた。当初は芽の出なかったECサイトだったが、顧客とのコミュニケーションを大切にした取り組みでユーザーを増やし、外構工事と相乗効果を出しながら、事業を成長に導いている。
先代とのわだかまりの時期を超え社長に就任した鶴氏が大切にしているのはオープンでフラットな組織づくり。東京プロマーケット市場への上場も秒読みだ。
先代が病に倒れ、やむなく家業を継ぐ
Q 家業のことをどのように見ていましたか?
A 父が何の商売をしているのかさえ知らず、まったく継ぐ気はありませんでした。
大学でオートCAD(パソコンによる設計支援)を使う授業があったんです。その後、たまたま父の事務所に行った時に、オートCADで外構工事のパース(完成予想立体図)を描いているのが目に入ったので、父にオートCAD の勉強をしていることを伝えたんです。
その後、オートCADのオペレーターが退職してしまい、たちまち困った父に「アルバイトがてらやってみんか」と言われまして。小遣い稼ぎのつもりで引き受けました。それをきっかけに外構工事の仕事をしていることを知りました。ただ、父はぼくに継がせる気はなかったようです。
Q 家業の仕事に就いたきっかけは?
A 父が病気で倒れていなかったら入社していませんでした。
アルバイトをしているうちに、父から「100万渡すから、なにか自分で事業を考えてみろ」と言われました。大学の友達だった眞國さんと加藤さん(後にハンワホームズに合流)と一緒に外構工事で扱う資材を販売するECサイトを立ち上げたんです。20歳の時でした。今のDEPOS SHOP事業の前身ですね。運送費を削るために自分たちで仕入れに出向いたりしましたが簡単には売れませんでした。
ぼくは普通に就活して就職先も決まっていたんですけど、父が心筋梗塞で倒れまして。「自分に何かあったらこの人に連絡してほしい」と、ある得意先の方の名刺を手渡されました。父がそんな状態でしたから、やむなくそのまま家業に就職しました。
職人さんの給料も払えない状況からのスタート
Q 入社して知った会社の状況はいかがでしたか。
A それはもう泥船に乗ったようなものでした。
4月に入社して職人さんの給料を払おうと思ったら、現預金が底をついていてないんです。
借入などで窮地を凌ぎましたが、翌月にはそれもできず、今日までに支払えません、と職人さんに頭を下げました。当時の職人さん今もお世話になってますけどね。そのくらい自転車操業だったんです。父はその後3年ほどは年に6分の1くらい入院していたので、事業を畳む話を何度もしました。
弟や大学時代の友人にも手伝ってもらうことにし、弟にはECサイトを任せ、僕は外構工事の営業に専念しました。それでなんとか外構工事の仕事が復調していきました。
Q お父様との関係は。
A 目指す方向が違うため、ぶつかることが多かったです。
ECサイトの立ち上げにしても、自分でまいた種に水をあげ、花を咲かせるところまでできるのか、今思えば経営者の立場から慎重に見守られていたのだと感じています。でも親の敷いたレールにだけ乗るのは納得がいかなかったんです。外構工事がようやく軌道に乗ってきたので、腹をくくってECサイトに注力しようと思い、外構工事の事業を弟に任せました。30歳の頃です。
父はそもそも個人事業として自分のやりたいように仕事をやりたいタイプの人でした。でもぼくは組織として事業を育てていきたいと思っていましたから、そこでもぶつかってしまい、いつしかお互いに話もしなくなってしまいました。
ECサイトに向き合って得た自信が飛躍のきっかけに
Q ECサイトはどのように伸ばしていったのでしょうか。
A 海外の展示会まで仕入れに行ったのが飛躍の契機になりました。
ECサイトに専念して1年目は売上を落としてしまいました。2年目は、流通の無駄を見直そうと、メーカーから直接仕入れるチャレンジをしました。それでも黒字化できませんでした。他のサイトと同じような商品を売っていても差別化できないと考え、3年目には海外の商品に着目し、それも商社経由でなくメーカーと直接取引ができるようドイツや中国の展示会に出向いて直接交渉しました。
それが思いのほかうまくいったことで自信がつきました。日本から何も知らないぼくのような人間が行ってもちゃんと相手をしてくれるんだ、と。それから行動が変わりました。帰国してからは、外構工事の新規開拓でも大手住宅会社にどんどん飛び込んでいけるようになり、取引先が一気に増えました。
Q ECサイトはその後どのように伸ばしていったのですか。
A エンドユーザーの方を向いてブランディングに注力しました。
家って3回建てないと満足できるものができないと言われます。いざ住んでみると、周りの目が気になって洗濯物が干せない、とかいろんなことに気づくんです。そこにどうかかわっていけるかを考え、お客様と対話をしながら提案をするようにしています。ですから、うちでは売っていない商品についても相談を受け、取り寄せています。値段ではなく、この人のところで買いたいと思っていただけるようにブランディングを図っていきました。
ECサイトと外構工事の二つの事業をバランスよく手がけることで、回収期間の長い外構工事業のキャッシュフローを補うことができています。ECサイトの屋外家具を入口に住宅メーカーやホテルに外構工事で入り込むこともでき、2つの事業で相乗効果を発揮できています。
2年間口をきかなかった先代と腹を割って向き合う
Q 社長交代は円滑にいきましたか。
A 向き合って話をしたところ、父から「引退する」と言ってくれました。
父とは2年間口をきいていなかった時期がありました。もとはと言えば、僕は継ぐ気はなく巻き込まれた立場。ただ、普通ではできないことも経験させてもらいました。ただ「父と僕とでの2頭体制は社員も戸惑っていると思う」ということをある時父に率直に話しました。すると、父の方から「引退する」と言ってくれたんです。向き合って、腹を割って話したことで、その後の承継は問題なく進みました。
Q 社長になって経営で意識していることは。
A オープンでフラットな組織づくりを目指しています。
経営をするのが社長の役割であって、営業は営業、現場は現場、そこに優劣も上下もないと思っています。だから、私の役割は会社の未来を示すこと。そして誠実な仕事を心がけ、徹底すること。そんな社風ですから若い社員は僕に対して社内チャットでがんがん意見を言ってくれます。エイジフリーも提唱しています。年齢が引退を決めるわけではないので、意思と能力があればいつまででも働ける企業を目指しています。
8月に新社屋が完成したところです。我々の作業は造園業派生ビジネスなので、大地のエネルギーを感じたいという想いから、エントランスには地層が絵画の様に模様を重ねた大理石を貼っています。
動画スタジオも併設しており、属人的になりがちな個人のスキルを動画で発信し、学べる場所にもしたいと考えています。
55歳での引退を公言し、自らに鞭を振るう
Q 今後の目標は。
A 東京プロマーケットでの上場を視野に入れています。
株式上場には信用力や知名度、ガバナンスの強化など様々なメリットがあります。一方で、常に株主の監視の目にさらされ、常に業績を求め続けなければなりません。その点、東京プロマーケットは、プロ投資家向けの市場であり、利益額などの基準もなく、無理に背伸びすることなく経営ができると考え、選択しました。
現状で造園業の上場企業は1社しかなく、ベンチマークになって産業発展に寄与したいと考えています。また、ひとたび自然災害が起これば我々のような業種は地域での役割が増します。泉南市初の上場企業として地域に責任を持つ覚悟を持って貢献したいと考えています。
上場を実現するまでの道のりは大変ですが、挑戦しがいがあります。何より私自身、そして従業員の意識も変わることになると楽しみにしています。
Q 次のバトンをどのように引き継ぐか、考えておられますか。
A 55歳で引退することを決めています。
ぼくは父からバトンを受け取っただけであり、次のバトンをどうやって渡すかをすでに考えています。そして、55歳で引退しようと決め、社員にも公言しています。自分のことを振り返ると、若くして社長やらせてもらったからこそイノベーションできたと感じています。一方で、社長ってどこかで内にも外にも無理して演じなければいけないところがあります。それを60、70にもなってやるのはしんどい。自分らしさを手に入れるためにも今がんばらないといけないと自分に鞭を振るっています。
小6の息子が継ぎたいと言ってくれています。ぼくの姿を見てると楽しそうにしているらしいです。ただ、息子には伝えています。「社長を決めるのはお父さんではなく、周りの人。だから社会に認められる人になってほしい」と。